日記のなかの文学たち 

 

外国文学編

ダン・ブラウン

それなりに忙しいのですが、原稿仕事の息抜きにとちょっと読み始めたら止まらなくなってしまった小説があります。

五月に映画が公開される、ダン・ブラウン『ダ・ビィンチ・コード』。

先週買った「ビジュアル愛蔵版」の600ページの本なのですが、これが、いやはや面白いのなんのって。

キリスト教世界の隠された「暗号」の解読ということのですが、
それよりもこの小説、まったくそのままアメリカ版のミステリー映画みたい。
登場人物はアメリカの俳優のイメージと重なると、ストーリーの展開、
場面の転換の仕方は、アメリカ映画の技法と同じ。
とくに舞台の写真や出てくる絵画が挿入されたビジュアル版で読んでいるので、
読後の印象は映画を見てきたみたいな気分になります。

今ようやく半分すぎたところですが、ほんと「謎」の解明は、どんどん後に引くように描かれていて、「うまい」です。

ということで、これからまた続きを読みます。軽くウイスキーとか飲みながらが、いいですね。

『ダ・ヴィンチ・コード』を読み終えました。

「聖杯」伝説の謎解きは、初期キリスト教世界における「女神信仰」「聖女信仰」へと繋がり、
エジプトやギリシア神話などの「異教」とリンクしていく。
それらを封印した現在のキリスト教は、すべてはローマカトリック教会が作り上げたもの…。

前半の「謎」解きの部分は、ダ・ヴィンチの絵画、イエスとマグダラのマリアとの関係、
シオン修道会、テンプル騎士団、死海文書、グノーシス神話など「美味しい話題」が盛りだくさんで楽しめますが、
後半の小説としての謎解き、つまり「真犯人は誰か」みたいな落ちの部分はわりとすぐに見えてしまって、ちょっとダレますね。
それに結末のつけ方も、いかにも「アメリカ映画」みたいな感じです。

といろいろケチつけますけど、読んでるときは夢中になれる、面白い小説でした。初期キリスト教のこともいろいろ勉強になりました(笑)

先週梅田で買った、『マグダラとヨハネのミステリー』(三交社)という関連本(というか、『ダ・ヴィンチ・コード』のネタ本)も、ついでに拾い読みしました。まぁ、ネタはすべてここから来ていたわけですね。

 

ウィーン世紀末文学

食後、こたつに入って、ちょっとだけ読書。池内紀編訳『ウィーン世紀末文学選』(岩波文庫)。
こてこての中世神道の世界を書いていたので、突然、ヨーロッパ系の小説読みたくなったのでした。

シュニッツラー『レデゴンダの日記』、ホフマンスタール『バッソンピエール公綺譚』。初期谷崎の世界を思わせる小説でした。

十一時前にはくたくたさんはお休み。僕は部屋の隅でひとり読書してました。
岩波文庫の『ウィーン世紀末文学選』。バール「ジャネット」、アルテンベルク「小品六つ」。

読書のあとは、部屋に付いている小さな露天風呂へ。月は、空高く渡っていきます。月を眺めながら露天風呂とは、贅沢ですね。

お風呂出てから、テラスで持参のウイスキーを飲んでいるうちに、うとうと…。

三時過ぎに宿にもどり、またお風呂。って、結局温泉三昧なのでした。夕ご飯まで、部屋で読書。

今日はフランス小説。ゴーチェ「ポンペイ夜話」。古代ポンペイの美人のミイラに恋をした青年が、
いつのまにか二千年の時をこえて、古代ポンペイにさ迷ってしまうというお話。

 

=P・トゥーサン クリスチャン・ガイイ

雨の日曜日は、家でお楽しみ系読書。昨日買ってきたベルギーの作家J=P・トゥーサンのトラベルエッセイ『セルフポートレート』(集英社)。

東京、京都、奈良をはじめ、香港、ベルリン、チュニジア、コルシカなど、あっちこっちを訪れている現代作家のエッセイ。
面白いです。京都も奈良も観光地や神社仏閣のことは出てこない。
奈良では、新薬師寺や春日大社に行くかわりに、なんと「ストリップ劇場」へ行ってしまう。
くすっと笑えて、でもちょっとしんみりした気分にもさせてくれる文章です。

夜は続いて現代フランス作家のクリスチャン・ガイイの『ある夜、クラブで』(集英社)。
中年にさしかかった元ジャズピアニストの「恋物語」って感じで、少し前のアメリカ映画にあったようなお話。
でも会話のリズムは、やっぱりフランス小説なのでした。

このふたつの本は、どちらも野崎歓の翻訳。野崎氏は若手のフランス文学の研究者でネルヴァル全集の翻訳もしています。

以前読んだ『谷崎潤一郎と異国の言語』(人文書院)という、
初期の谷崎について論じた本がすごく面白かったので、彼が翻訳している小説は、いつも気にしていたのでした。

そしてこの二つの本の合い間に、以前読んだ堀江敏幸の書評集『本の音』(晶文社)も、パラパラと再読。

野崎さん、堀江さんともども現代フランス文学者兼翻訳家、そして作家です。
ふたりとも、僕より下の世代になりますが、こんな文章が書けたらいいなぁといつも思いながら、うっとりと愛読しています。

 

アーヴィング

食後にまたお風呂。入浴後、窓側の椅子にこしかけて、持参のボウモアをちびちびと飲みながら、読書。
アメリカロマン派の作家・アーヴィング『ウォルター・スコット邸訪問記』(岩波文庫)。静かな宿にふさわしい、スコットランドの紀行文です。

ケーブルカーに乗って、傘松公園へ。天橋立、若狭湾が一望できます。
ここでお約束の「股のぞき」。くたくたさんは「袖のぞき」していました。
昔の女性たちも、股のぞききはかっこ悪いので、絵葉書などでは芸妓さんたちが「袖のぞき」している絵があります。

ここで最新の知識。なんと昨夜読んでいた、アーヴィングの本によると、
スコットランドのメルローズ寺院という古寺でも「体を前に屈めて両脚の間から寺院を眺めると遺跡が全く異なる様相に見える」こと、
淑女たちはそれを嫌がって「脇の下から眺める」という風習があったとか。スコットランドにも「股のぞき」「袖のぞき」があったのでした。

僕はまたウイスキー飲みながら『ウォルター・スコット邸訪問記』(岩波文庫)の続き。

アメリカの作家・アーヴィングが、スコットランドの著名な詩人・ウォルター・スコットの邸宅を訪問したときのエッセイです。
スコットランドの風景にまつわるいろんな伝説がさりげなく紹介され、
十九世紀はじめの「大地主」が作家でもあったという世界をゆったりと味わうことができます。

雨がしとしと降っている宿で読むと、この紀行文、格別です。

ゴットヘルフ

部屋の廊下に、普段の仕事とは「関係」のない、小説やエッセイ、詩集とかを入れた本棚があります。
仕事で忙しいときに、それらをチラッと見て、仕事が終わって時間ができたらこれを読もうか、
あれを読もうかとぱらぱらめくったりします。
でもなかなか読めなくて、並んでいるだけの本が増えてしまいました。

ということで、今年の年末は、その本棚に並んでいる岩波文庫の小説を読むことに。
旅行中のアーヴィングに続いて、スイスの作家・ゴットヘルフ『黒い蜘蛛』。

作者は十九世紀中頃のスイスの国民作家ということです。スイスの農村を舞台に、
黒い蜘蛛=悪魔が村中に蔓延していくときの恐怖が描かれています。
挿絵も入っていて、この絵のタッチがなかなかいい。
お話としては面白いのですが、もう少し「土俗的」な世界かと思ったら、
結局は悪魔VS神の、けっこう単純なキリスト教的世界のなかの物語でした。

 

パヴェーゼ

岩波文庫の海外小説、第三弾は二十世紀初頭のイタリアの「ネオレアリズモ」の作家・パヴェーゼの『故郷』。
イタリアのファシズム時代の作家ですが、意外と作品には直接的な「政治性」は感じられませんでした。

イタリアの僻村を舞台とした物語。主人公は「政治犯」で出獄したばかりの青年。
彼が村の女性と恋するという話ですが、表面的には出てこない「政治性」が、その僻村での事件に隠されているようです。
けっこう奥が深い小説。一気に読んでしまいました。

廊下の本棚に並んでいる小説類は、書店でみつけ、ほとんど衝動的に買ったもの。
パヴェーゼの作品はなんの予備知識もなく、表紙の絵(写真)に惹かれて買ったのでした。
でも、読みたくないものは買うはずありませんから、やっぱりどっかで僕の「趣味」や「趣向」にピピッときた作品だったのでしよう。

さて、明日は何を読もうかなと、気ままに、あれこれ本棚を眺める時間は「至福の時」ってやつですね。

 

アーサー・シモンズ

本日の読書は、イギリスの詩人・評論家のアーサー・シモンズ『象徴主義の文学運動』(平凡社ライブラリー)。
ネルヴァル、ゴーチェ、ボードレール、マラルメ、ユイスマンス…といった、
十九世紀末のロンドン、パリで活動した作家・詩人たちについての「同時代」的な証言、批評の書物です。

平凡社ライブラリー本の表紙カバーは、モローの『ケンタウロスに運ばれる死せる詩人』の絵。
有名なユイスマンスの『さかしま』には、モローの絵について語る魅力的な一節がありますね。

ボードレールとかは、若いときはブームみたいで皆が読んでいたので、逆に「敬遠」していたのですが、
それなりに年をとって、あらためて読んでみると、やっぱり、けっこういいですね。
手元にあった、堀口大学が訳した詩集をぱらぱらめくりました。

アイルランド短編集

岩波文庫の小説は、『アイルランド短編集』。訳者の橋本槇矩氏の解説が、なかなかよかった。
なぜアイルランドには「長編小説」の傑作がないのか。
アイルランドに「ルネッサンスも宗教改革も産業革命も中産階級の勃興もなかった」ので、
長編小説というジャンルは成長しなかった、という説明は、なるほどと納得。

短編集のなかの、マライア・エッジワース「リメリック手袋」を読みました。
イギリス人のアイルランド人への「差別意識」がテーマ。両者の「和解」という、けっこう楽天的な結末の小説。

 

エレミール・ブールジュ

元旦の読書は、十九世紀末フランスの作家、エレミール・ブールジュ『落花飛鳥』(国書刊行会)。タイトルが漢詩風なのもお洒落。

物語は、いきなりパリ・コミューンの激闘のさなか、そこで傷ついたひとりの若い兵士が、
じつはロシア皇帝の若き王子で…と、彼をめぐる数奇な世界が繰り広げられていきます。
「貴種流離譚」みたいですが、ストーリーの展開も、わざと「荒唐無稽」めかしてあり、それこそ本地物の物語みたい。

面白い小説で、思わず深夜二時近くまで、読んでしまいました。
でも、四百ページ近くの長編なので、とうぶん楽しめそうです。

エレミール・ブールジュ『落花飛鳥』の続き。ロシアの王子が、無理やり結婚させられた女性は、
じつは彼が昔から恋焦がれていた女性という結末で、第一部は完結。なんともご都合主義の展開…。

この小説、舞台劇を意識した、会話中心の展開で、とても古い時代の物語を読んでいるみたいな気分になります。
でも、読み進めているうちに、権力争いの話が多くなって、
それをめぐる家族、親族の描き方は、なんだか大河ドラマみたいになってきました。たしかにこれって、「時代物」なのでした。

ユイスマンス

元旦からのブールジュ『落花飛鳥』に続いて、昨夜からユイスマンス『彼方』(光風社)を読み始めました。

ユイスマンスといえば、澁澤龍彦訳の『さかしま』が有名です。愛読書のひとつですが、
『彼方』のほうは、悪魔主義、錬金術、占星術の世界を描くといったもので、より僕好みです。

主人公のデュルタルは作家。自然主義全盛の文壇にそっぽをむいて、
「青髭」=ジル・ド・レーを主人公とした小説を書いて、「中世紀オキュルティスム」の世界に分け入っていくというもの。

時代から忘れられたような鐘撞き夫婦のサロンにあつまる友人たちの「悪魔」や「霊」をめぐる対話、
「淫夢女精」を思わせる婦人との妖しげな関係など、
主人公が書いている小説と現実世界とかが交錯していくような仕立てです。

ただ、『彼方』は、そうしたオカルティズム世界への「入り口」といった感じで、
『さかしま』の陶酔するような幻惑世界にくらべると、ちょっと硬質な表現といった印象があります。

近代的な合理主義や功利主義に背を向けていく作家が、
「反近代」を志向していくために、同好の志とあれこれと議論するというシチュエーションは、
初期の荷風の小説を思わせます。ユイスマンスと荷風って、けっこう近いところがあるのかも。

ということで、今日は一日中、ユイスマンスを読んですごしました。とても贅沢な気持ち…。

ユイスマンス『彼方』、ようやく読了。

やはり、ジ・ル・ドレー公爵の悪魔召喚、幼児虐殺の場面は、すごいです。
また淫夢女精=シャントルーヴ夫人との交情は、なかなか読ませます。

ただ後半の「黒ミサ」のシーンや、神学論争みたいなところは、意外と退屈でした。
ユイスマンスはやはり『さかしま』のほうが面白いかも。

 

W・G・ゼーバルト

読書は、W・G・ゼーバルト『アウステルリッツ』(白水社)。

ドイツの作家で小説とも紀行文とも随筆、ドキュメントともわからないみたいな、不思議な散文作品。

アウステルリッツという人物が、自分の過去のことを語っていくのですが、
その内容にそくした写真が本文中についていて、実際に起きたことと思わせつつ、
物語が進んでいくのでした。なかなか凝った趣向です。

なによりも、透明感のある文章がいい。けっこう悲惨な話なのですが、読んでいて、とても気分がほぐれてくるのです。

深夜二時まで原稿仕事。そのあとは、チビール飲んで、ゼーバルト『アウステルリッツ』の続き。

アウステルリッツは、少年時代に、自分の本名が「アウステルリッツ」であることを知り、
しかし長い間、自分の「過去」の記憶を無理やりに消そうとしていたのですが、
ヨーロッパ各地の歴史的な建造物を訪れていくなかから、少しずつ自分の「過去」を取り戻していきます。

そこに顕れてくるのは、ナチスドイツの「奴隷制国家」「ヨーロッパ征服」と、自分の過去との繋がり…。

というように、ストーリーをまとめると、ありふれた内容と思われるのですが、
この「小説」の魅力は、ストーリーよりも、美しいヨーロッパの景色の描写と、
その奥に隠されている「歴史」のことが主人公の静かな語りのなかから浮き上がってくる、
そこになんともいえない味わいがあるのでした。


ラフカディオ・ハーン

平川祐弘『破られた友情』(新潮社)を読みました。

ラフカディオ・ハーンとチェンバレンの関係について、評伝ふうに描いたものです。
平川氏は、ラフカディオ・ハーン研究の、最先端ですが、この本は初期の著作のようです。
チェンバレンは、いうまでもなく、最初の『古事記』の英訳をして、
明治近代における「日本研究」の先達。彼とハーンとの関係は、
いろいろ複雑なところがあるようで話題が尽きないところです。

チェンバレンがどのように宣長を「継承」したのか、それはラフカディオ・ハーンの「篤胤継承」とはどうクロスするのか。
それらが次の僕の本のテーマに関わるので、この本を読んだのですが、
でも、それ以外にも面白いことがたくさん出てきました。

チェンバレンの弟(ヒューストン・チェンバレン)は、ナチス党の綱領に組み込まれた
『十九世紀の基礎』を書いた思想家であったこと、若い時代のヒトラーとも交流があったこと、
それを兄のチェンバレンは気に掛けていたことなどなど。

いやはや、こんなことは知らなかった。恥ずかしい。


ロジェ・グルニエ

現代フランス作家の小説。ロジェ・グルニエ『シネロマン』(白水社)。

一九三〇年代のフランスの田舎町の映画館を舞台とした人情物です。
堀江さんお勧め。たしかに彼の作風と重なりますね。

グルニエの作品は以前に『水の鏡』(白水社)を読んだことがあるのですが、
それはけっこう暗い小説というイメージでしたが、『シネロマン』のほうは、もう少し心休まる物語のようです。

仕事のあとは、ワイン飲みながら、『シネロマン』の続き。ほんと昔のフランス映画を観ているような気分になる小説です。
深夜にお酒飲みながら、ゆったりと読むにはもってこいですね。

 

鈴木道彦

鈴木道彦『異郷の季節』(みすず書房)。プルーストの『失われた時を求めて』を一人で全訳した鈴木氏のエッセイ集。
若いときのフランス滞在のエッセイです。

五十年代後半の滞在時には、「アルジェリア戦争」と独立運動と遭遇し、
六十八年に滞在したときは「五月革命」を体験するといったエピソードが続く、
けっこう政治的な内容の文章ですが、へんにイデオロギー的な色合いはなく、ゆったりとした気分で読めます。

鈴木氏がパリで出会った、作家たちや「マグレブ」(チェニジア・アルジェリア・モロッコの北アフリカ三国)の人々とのエピソードが面白い。
意外な発見も。

たとえばブランショといえば『文学空間』の作者で、それこそ文学至上主義者のイメージが強いですが、
彼は「五月」のときの学生作家行動委員会の重要なメンバーであったこと、
マルクス主義者のルフェーヴルは、老後、年若い美人の妻(何人めかの)とひっそりと暮らしていたことなど、
意外な事実が描かれています。

またパリの「ビブリオテーク・ナシオナル」で出会った敦煌文書を長年にわたって解読している中国の老人、
スターリン時代の「モスクワ裁判」の資料を調査しているロシアの老人のエピソードをつづる「書物を流れる歳月」というエッセイは、お気に入りです。


ロセッティ

入浴後はひと仕事が終わったので、ウイスキー飲みながら、趣味読書。

世界幻想文学大系『英国ロマン派幻想集』(国書刊行会)をぱらぱら。
ラファエロ前派のロセッティ「汚された乙女」と、ロセッティの妹のクリスティーナの「小鬼の市」が入っているのでした。

翻訳・解説は荒俣宏。荒俣さん、ロセッティ兄妹の詩を読むと「涙を禁じえない」と解説に書いているのでした。なるほど。

夜になったら、いちだんと雪が降りしきっています。

三条通りの行きかう人たちを眺めつつ、コーヒー。まだ時間があったので、
持ってきた岩波文庫の『クリスチナ・ロセッティ詩抄』をパラパラと読みました。

クリスチナ・ロセッティは、ラファエル前派の画家・ロセッティの妹。
兄も詩人ですが、妹のロセッティの詩のほうが、僕は好きです。

この文庫、翻訳が口語体であったり、文語体であったりして、統一していないのが、ちょっと難点かも…。

 

 

ボードレール

食後はコーヒー飲みながら、読書。ここのところ、ボードレールの詩を本気になって読んでいます。

散文詩の『パリの憂鬱』(福永武彦訳・岩波文庫)。
「寡婦」「年老いた香具師」「午前一時に」など。たしかに荷風の世界と通じるものがある…。

「しょうざん」でのランチのときは、持参したボードレールの『パリの憂愁』(岩波文庫)を拾い読み。
「年老いた香具師」が描く十九世紀のパリの祭り風景は、なんか近世末期の江戸の雰囲気。
たしかに時代はほぼ同じ。ボードレールの没年は一八六七年。「大政奉還」の年です。

前に読んだ西脇順三郎の『ボードレール』(講談社文芸文庫)には、
「幕末の風格」をまだ持っている自分たち「明治末年」の青年が、
『悪の華』を読んでも理解できるわけがない云々とありました。
たしかにまったく違う日本の「幕末」とフランスの「十九世紀」ですが、それでも両者に共通する「時代感覚」みたいなものはありそうです。

また十九世紀の都市・パリとボードレールについては、
ベンヤミンの「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」(岩波文庫)というのがあります。
こちらはボードレールとマルクスとを重ねて論じるもの。この本、手元にあるのですが、未読です。原稿終わったら、読みましよう。

ちなみにマルクス『資本論』第一巻の初版刊行はボードレールの死の年。

夜は原稿仕事が終わったので、読書。以前から読もうと思っていたベンヤミンの
「ボードレールにおける第二帝政時代のパリ」(岩波文庫『ボードレール』)。
マルクスの一八四八年以降の思想と、ボードレールの詩とを重ねて分析していくものです。

そのあと川本皓嗣「荷風の散文とボードレール」(『ユリイカ』一九七三年五月号)。

夜は、読書。

今夜は、これも前から読みたかった、河盛好蔵『パリの憂愁 ボードレールとその時代』(河出書房新社)。
ボードレールの「伝記」ですが、とくに時代背景のことが詳しく描かれています。

ボードレールといえば、「耽美派」の詩人のイメージが強いですが、
彼は「一八四八革命」のときは、銃をもってバリゲートにこもっていたのでした。
そして主著の『悪の華』は、まさにこの「革命」の敗北のあとに出版されるのでした。

またボードレールには「インド」に渡ったという「伝説」があるのですが、
河盛さんの本では、それは本人が作り上げた「伝説」であることを、最近の研究にもとづいてあきらかにしています。

でも、そうであるならなおさら、ボードレールの詩にある「エキゾチズム」の秘密を解き明かす必要がありますね。

しかし、この本、日本人が書いたボードレールの「伝記」としては、出色なものでは。
当時の写真も豊富に使われていて、伝記を読んでいるというより、
なんか、上質で古典的なフランス映画を見ているような、そんな気持ちにさせてくれます。

ちなみに、荷風も谷崎も、その初期にはそうとうボードレールに入れ込んでいます。
ふたりとも詩の翻訳をしているし。まぁ、いまごろ僕が「ボードレール」とかを話題にしているのも、
すべてふたりの影響からなのです。それとやはり「一八四八年革命」との関係、というのも、気になるところです。

深夜、お楽しみ読書のあとは、蒸し暑くて汗ばんでいるので、残り湯のお風呂にざっと浸かります。
そしてそのあとは、焼酎入り冷たいグレープフルーツソーダを一杯。

夏休みの快楽ですね。

プールのあとの夜は、お楽しみ読書。ボードレールの伝記の続き。

1973年に刊行された『ユリイカ』の臨時増刊号「特集・ボードレール」を拾い読み。
阿部吉雄氏の「批評的書誌・戦後日本のボードレール文献」の解説がとても面白く、
思わず、そこに紹介されている本読みたくなって、さっそく「日本の古本屋」で検索してしまいました。

それにしても、七十年代は、やはり「ボードレール」の時代だったんだなぁと、あらためて認識。

途中気分転換に、『ユリイカ』のバックナンバー、197810月号の特集「デカダンス」。
田辺貞之助「ユイスマンスとデカダン」、磯田光一「「人工楽園」考」、阿部良雄「ボードレールのデカダンス」など。

 

アンリ・ド・レニエ

お昼ご飯のあと、ベランダの椅子で読書。アンリ・ド・レニエ『水都幻談』(平凡社)。
フランスの詩人の「ヴェネチア」をめぐる散文詩です。以前に一度、ざっと読んだものを再読。

レニエは、荷風が溺愛した詩人のひとり。かなり前に作者のことを気にせず買った本でしたが、
あらためてこれが荷風の溺愛する詩人の本とわかって、狂喜して読みました。

まさしく荷風好みの詩ですね。ちなみに荷風の『珊瑚集』には、10篇のレニエの詩が入っています。

夜はお楽しみ読書。アンリ・ド・レニエ『碧玉の杖』(志村信英訳・国書刊行会)。
荷風が「酷愛」した作家レニエの小説集です。

「アメルクール卿」のなかの一編「奇妙な晩餐会」がいい。
宮殿・階段・中庭・石畳・庭園・水盤、黄金の薄明、そして広大な宮殿にひとり住む大公妃…。

この本は、フランス世紀末文学叢書の一冊。口絵は澁澤龍彦がセレクトした世紀末絵画。
レニエには、モーリス・ドニの「イヴォンヌ・ルロル嬢の肖像三態」をセレクト。
「このルロル嬢の気位の高そうな白い顔は、名だたる貴族主義者たるレニエの趣味にもぴったり」というのが、澁澤さんが選んだ理由。

雨のあがった夜に読むのにふさわしい一冊でした。

前にネットの古本屋で買ったレニエの『碧玉の杖』。
これは一九八〇年代に国書刊行会がシリーズで出した「フランス世紀末文学叢書」の一冊。
巻末のシリーズ一覧を見ると、いろいろ気になる作家の作品が並んでいます。

ということで、「日本の古本屋」で検索して探してみると、
意外に安い値段で「全十五巻」が出ていたので、思わず購入。それが届きました。

ユイスマンス『腐爛の華』、ロデンバック短編集『死都ブリュージュ・霧の紡車』、
またグールモン『仮面の書』、ほかに山尾悠子さんお勧めのシュオブの短編集『黄金仮面の王』などなど。
さらに詩を集めた『詞華集』や『評論・随筆集』なども入っています。

またこの叢書が気になったのは、作家・作品ごとに澁澤龍彦がセレクトした同時代の画家の絵がカラー口絵で付いていること、
そしてそれを選んだ理由などを述べる澁澤龍彦のエッセイが月報についていること。
その澁澤のエッセイを読むのも、なんとも愉しい。

ロデンバックの絵がクノップフの「見捨てられた町」なのは当然として、
ギュスターヴ・モローが口絵になっているレオン・ブロワという作家の『絶望者』はどんな小説なのかと、
そんな思いをはせるのも、なんとも楽しいでした。

ということで、届いた叢書を一冊ずつパラパラとめくりながら、
折り込み月報のエッセイを読んだり、口絵の画家について手持ちの画集で調べてみたり、
『詞華集』のなかのレニエの詩を読んだりしているうちに、あっという間に時間がたってしまいます。

原稿書かなければと思いつつ、ついついこのシリーズが気になってしまい、
あれこれとページをめくってしまうのでした。

僕はまったくフランス語は読めないし(いうまでもないですが)、
フランス文学の代表作みたいのには疎いですが、
吉田神道や本居宣長やらのベタベタの「日本」のことの原稿書いていると、
時々、こういう「世紀末フランス文学」とかかが読みたくなる。まぁ、そういうのが「精神衛生上」よろしいみたいです。

もちろんレニエやロデンバックは、荷風経由なので、結局はそこに行き着くのですが…。

夜はお楽しみ読書。レニエ『或る青年の休暇』(斎藤書店)。

この本、昭和二十一年に刊行されたものを「日本の古本屋」で入手したもの。
ザラ紙に印刷の文字もまだらになっている古い本です。
でも、それがかえって、この世紀末の、今や忘れられつつある作家の本にはふさわしい感じです。

お昼ご飯のあと、「日本の古本屋」で購入した本が届きました。

窪田般彌『ロココと世紀末』(青土社)。パラパラめくりつつ、
そのなかの「黄昏の詩人レニエ」「モロー 孤独な幻視者」を読みました。面白い。

 

エリアーデ

東京への往復の新幹線では、エリアーデの恋愛小説『マイトレイ』(作品社)を読みました。
そうです、エリアーデって、あの『シャーマニズム』の著者の宗教学者ですが、
彼は同時に、小説家=物語作家でもあります。『マイトレイ』は、彼自身のインド留学、そこでの恋愛体験にもとづく小説。

ちなみに最近、エリアーデの「幻想小説全集」全三巻(作品社)がでています。
第一巻にはいっている「セランポーレの夜」とかは最高です。インドの熱帯の夜の幻惑…。

帰宅後、お風呂に入ってから、すぐには寝付けず、結局、読書していました。
エリアーデの『マイトレイ』の続き。現代のヨーロッパ人がインドの「神話」のなかの少女と出会い、
恋愛をしていく、そんな小説です。

深夜、外に出たら、地球と再接近している火星が赤く見えました。

深夜は、一杯飲みながら、エリアーデ『セランポーレの夜』。もう何度読んだかわからない小説ですが、
読むたびに面白い。ベンガルの夜の幻覚。そしてタントラの魔術…。
繰り返し、繰り返し読んで楽しむ小説を持つことは、「人生」にとってほんと大切だと思います。

午後は休日読書。エリアーデの『幻想小説全集』の一巻目から「大物」という短編作品読みました。
突然、身長が伸びてしまい、最後は「巨人」になってしまう男の怪異譚です。

でもこういう題材もエリアーデにかかると、身長が伸びていく現象は「インドの中世のある技法の成果」に似ているとか、
巨大化した男にたいして語り手の「私」が、

「言ってくれ、神は存在するのか、そうしてわれわれが神を知るためにはなにをしなくてはならないのか。
言ってくれ、死後にも生命は続くのか、そのためにはどういう準備をすればいいのか。
われわれになにか言ってくれ! 教えてくれ!」

と叫ぶ場面があるなど、一般的な幻想・怪奇小説も「魂」の永遠性や「神秘」なるものの実在性をめぐるテーマになっていくのでした。さすがです。

本日も家にこもって原稿仕事の続き。書きすすめているうちに、
エリアーデの『鍛冶師と錬金術師』(大室幹雄訳・せりか書房)のことが関わってきたので、
あらためてメモ取りながら熟読。前から考えている「神話と魔術」との関係について、いろいろ新たな発見がありました。

エリアーデによれば、製鉄や冶金に携わる技術者は、〈鉱山〉〈鉱石〉に関する神話を生きるものでした。
鉄とか金とかは、大地の母胎内に成長していく。
冶金師は、その大地のなかでの成長を促進させて、自然のプロセスをこえた力を引き出してくる。
このとき、なんでもない「卑金属」が「高貴」な金属=金に変成させるのが錬金術師であった…。

そこで発揮されるのが「火」の力。火を自由に操ることができる彼らは「火の親方」とか「火の練達者」と呼ばれ、
人間の存在形式を超越していくものとなる。それで冶金師や鍛冶師は、
シャーマン・呪術師・文化英雄・神話的な王・王朝の始祖とも繋がっていくのです。

それに関わって、エリアーデは面白い伝承を紹介してくれます。
ジンギスカンがもと一介の鍛冶師出身であったなんていう、ものです。
これって、ジンギスカン=義経伝説を考えるとさらに面白い。
義経を奥州平泉に連れ出したのは黄金を売買していた金売り吉次だからです。
鉄や金、金属を変成させ、それを商売にする存在とが、どんどんリンクしてきますね。
まぁ、とても論文にはできない「妄想」ですが。

ヴァージニア・ウルフ

 

帰りの新幹線では、例によって小説(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』岩波文庫)を読みながら、弁当とビール。
この小説、期待していたのとはちょっと違う内容でした。
それで途中から、別の一冊に。デレク・フラワー『知識の灯台』(柏書房)。
どちらもタイトルに〈灯台〉と付くのは偶然です。
こちらは、古代アレクサンドリア図書館についての書物。
岡野版『陰陽師』第十二巻に登場する女性数学者ヒュパティアのことを調べたくて読み出しました。

種村季弘

 

行き帰りの車中では読書。ゆっくり本読めるので、これはこれで楽しい。
行きは、ドイツの幻想作家『ホフマン短編集』(岩波文庫)。

 

帰りは種村季弘の『温泉徘徊記』(河出書房新社)。
種村さんといえば、僕にとっては、『黒い錬金術師』とか『薔薇十字の魔法』『ビンゲンのヒルデガルド』とか、
〈魔術系〉の本の著者ですが、こういう温泉エッセーも、楽しいです。

この本、江戸時代の文人・俳人や地方に赴任したお奉行さまとかが書き記した「旅モノ」の随筆をたどりながら、
それを実地に検分するといった趣向。さすがそんじょそこらの温泉エッセーとは違います。
でも読んでいると、温泉行きたい〜。

と、僕はビールと駅弁たべながら、この本読んでいたのですが、ふと向かいの席を見ると、
中年のご夫婦(でも奥さんは若め)が、
なんとワイン(白のフルボトル)と、チーズ、生ハム、パン、サラダなどを用意して、
お二人でワインパーティ。しっかりワイングラスもお持ちです。
見る見るフルボトル一本開け、二本目のハーフも空に。なんともおいしそうです。
本読みながら、ついついそっちに目がいってしまうのでした。


プルースト

温泉の宿で読んでいた本は、鈴木道彦氏の『プルーストを読む』(集英社新書)です。

プルーストといえば『失われた時を求めて』ですが、二十世紀文学の出発点として、
さらに「近代文学」を超える作品として、最近でも人気の高い小説です。

これも『源氏物語』みたいに、名前は有名だけど、読み通した人はそんなにいないといった小説ですね。
鈴木氏の翻訳本でも全十二巻あります。

といっても、気になっている作品、いつかは読んでみたいと思わされる小説ですから、
その導入として鈴木さんの入門書を読んでみたわけです。

有名な「プチマドレーヌ」のエピソードの意味や、
そして二十世紀初頭のフランスの「サロン社会」や「スノブ」のこと、
反ユダヤの「ドレーフュス事件」のこと、あるいは「同性愛者」のことなどなど、
『失われた時を求めて』という小説世界の奥行きの深さと魅力を、とてもわかりやすく説明してくれています。

たしかに鈴木さんの新書は、「密度が濃く、大部な作品を堪能した充実感」(新書の見返しの解説)を味わえるとあるとおりです。
ほんとに「原作」を読んだ気にさせてくれるのでした。

でも、せっかくだから、全巻は無理としても、
抄訳本ぐらいなら読めるのではと、
以前に購入した鈴木氏訳の二巻本(エクストレ抄訳)『失われた時を求めて』(集英社)を読み始めました。

ちなみに、昨年もこの温泉で読んだのは、
鈴木道彦氏の『異郷の季節』でしたね。これは偶然です。

まだお正月なので、起床は十時過ぎ。午後は、お正月読書の続き。本日はプルースト。

『失われた時を求めて』。たしかに予想以上に難解です。
けっしてスラスラと読めるような小説ではないですね。
事前に鈴木道彦氏の『プルーストを読む』(集英社新書)の入門編を読んだので物語の全体像や、
小説の読みどころなどを頭に入れておいたので、
多少は読めるかと思ったのですが、それでも難解です。

読んでいるのは「抄訳」なので、物語の進行を要約した文章があって、
そのあとに要約された物語に続く場面の本編が始まるという構成になっています。
でも時々、要約された物語のほうが面白いようにも思えるところがあります。

たとえば主人公の「語り手」と、その初恋の相手のジルベルトとのやり取りなどの要約部分は「青春小説」なみの展開なのですが、
本編の部分は、ひたすら主人公=語り手の内面描写が延々と続くといった感じで、正直読んでいて退屈になってしまいます。

ただ読んでいるうちに、この小説が、十九世紀の、たとえばレニエの『生きている過去』(岩波文庫)のような、
貴族社会の内部を描いている物語を、主人公の一人称語りの世界へと描きなおしているみたいなところがあるなのだなぁと思えてきました。

たしかに「零落した貴族の館」を舞台にするというところなんかは、
レニエと共通点がありそう。でもレニエはやはり「十九世紀文学」でプルーストは「二十世紀文学」の違いが大きいのでした。

ところで、プルーストは『源氏物語』とも比較されます。
中村真一郎の『王朝文学論』が両者とも「時間」をテーマとする小説だと言っています。
それを思い出したので、本棚の奥から『王朝文学論』の新潮文庫を探し出して、読み返してみました。

昔、中村氏の文章を読んで、『源氏物語』をこんなふうにも読めるのかと「感動」したことも思い出しました。

「過去」を思い出すとは、まさにプルースト的ですね。

マルセル・シュオブ

日曜日の休息日です。一日、お楽しみ読書。

本日のメニューは、国書刊行会の「フランス世紀末文学叢書」から、
マルセル・シュオブ『黄金仮面の王』。読んだのは、「黄金仮面の王」「地上の大火」「眠った都」「リリス」。

シュオブは一部では、人気のある作家で、幻想小説の短編の名手とされています。
この叢書のしおりには、山尾悠子さんのシュオブ絶賛の「シュオブに関する断片」が入っています。

そう、シュオブの「地上の大火」とか「眠った都」とかは、山尾さん好みの、
世界の終末を描く短編。「地上の大火」は、旧約ヨハネ黙示録の世界を下敷きにしたものですが、
なんといっても、世界が終わっていく、その光景が美しい。そしてその世界終末は、同時に、
あらたな世界創世の光景でもある…。

「リリス」は、これはぼくの好みのラアフェル前派の画家・ロセッティをモデルとした短編。
叢書の口絵は、ロセッティの「花飾りの女」です。
その選定は澁澤龍彦。しおりには、澁澤さんのエッセイも。
シュオブの「リリス」は、まさしく「ネクロフィリア」(屍体愛)の世界。

「黄金仮面の王」は、パゾリーニの『アポロンの地獄』を思い出しました。
「癩」の王を主人公とした物語。壮絶ですが、けっこう最後は甘美な世界。

シュオブを読んでいて、同じく世界の終末を描いても、彼は中世の「説話世界」を書く作家という感じがします。
一方、山尾悠子の場合、説話ではなく「神話」そのものを書く作家という感じがします。

神話を書く作家、山尾悠子―。そういえば、その話をじつは最近、ある人としたのですが、
シュオブと比較すると、現代作家が「神話を書く」ということの意味が、もっとわかってくるような気がします。

などと、こういう「文学」のことを書いていると、なんか心が落ち着いてくるというか、
やっぱり自分は「文学系」なんだなと、つくづく感じる、今日この頃。

夜は、お楽しみ読書。

今日、梅田の書店で見つけて、思わず感激して買ってきた本。
日夏耿之介、矢野目源一、城左門の翻訳した、
いまとなっては「幻の翻訳詩集」を一冊に集成した『巴里幻想譯詩集』(国書刊行会)です。

そのなかから、マルセル・シュオブ『古希臘風俗鏡』(矢野目源一訳)を読みました。

プトレマイオス大帝のころ、コスの島に住んでいた詩人ヘロンダスから送られた過去の可憐な女性の幽魂が、
古代希臘の世界を甦らせてくれる…という「序詞」から始まる散文詩です。シュオブは、
最近『黄金仮面の王』を読んで、ファンになりましたが、
そうした中世ふう物語とは、また違う散文詩の世界にうっとり。

「陰陽道」や「中世神話」「古事記」といった、自分の研究テーマの世界とはまったく違う、
でもどこかでじつは繋がっているかもしれない、フランス世紀末の作家の作品を読むのは、
僕の精神衛生状、とても必要なようです。

まさしく「あえていうならば、なにか秘密めいた読書の愉楽をおぼえしめる」(澁澤龍彦)ということでしようか。

夜はお楽しみ読書。マルセル・シュオブ『古希臘風俗鑑』(国書刊行会・『巴里幻想譯詩集』)。

「この詩を読む方々にお願ひして、妾の奴隷だった非道い奴のことを探していただきませう…」
なんて始まり、「妾はあれが愛しくて愛しくて」で終わる、散文詩など。

シュオブのギリシア世界を読んでいたら、タデマの絵を思い出して、その画集を眺めました。

タデマは19世紀末に活躍した画家で、ギリシアやエジプトなどの「歴史絵」を、細密ふうに描いています。
その活動期間は、「印象派」と重なるわけですが、それとはまったく異なる、アカデミーの画風。
でも、ギリシアの蒼い海をバックに踊り狂う人びとや、
白い石の建物に横たわる女性とか、なんとも「異国ふう」で美しい。

タデマの画集は英語版のものを持っているのですが、
たぶん日本で刊行された画集はないのでは…。
ほとんど知られていない画家ですが、一部にはファンがいるはずです。
こういう画集見ながら、ウイスキー飲む深夜は、いいですね。

 

ル・クレジオ

仕事にとりかかるまえに、書棚の整理。こういうときは、
本を整理しながら、ふと目についた本をぱらぱらめくっているうちに、思わず読んでしまうことがあります。

そんな感じで読み始めたのが、フランスの現代文学作家のル・クレジオの『アフリカのひと』(新潮社)。
イギリス人で「軍医」の父親がアフリカ・ナイジェリアに赴任して、そこで暮らしていたときの「回想録」です。

戦争後、クレジオは、フランス人の母親とともに父の任地に行き、ともに暮らします。
しかしクレジオにとって、父はなにも語ってくれない、ただの厳格で怖い存在。
そして父が辺鄙なアフリカで暮らすことにどんな意味をもって生きてきたのかと、疑問に思う。

しかし、父の残した記録などから、戦争が始まる以前までは
母とナイジェリアの森林地帯や山岳地帯などの「野生」の世界で、充実したときを過ごしていたことがわかってくる。
アフリカに生きることに輝きをもっていた父。そんな父の輝きを失わせたものこそ、
戦争にほかならなかった…ということが読み進めていくとわかってくるのでした。

そのあたりの展開は、なんとも感動的です。そしてなによりも、
若い父と母が過ごしたナイジェリアの光景、
さらに少年時代のクレジオが体験した「野生の世界」が、うっとりするほど美しい。

「アフリカ体験」を描く作家としては、以前に読んだポール・ボウルズの『孤独の洗礼』(白水社)も面白かった。
こういう作品は、近年の「ポスト・コロニアリズム」の議論の対象となるわけですが、
たんなる「理論」としてよりも、まず作品の「読みごたえ」が大切ですね。

そういう意味でも、クレジオは、いいです。

クレジオの他の作品も読みたいと思ったら、ちゃんと書棚のなかに『砂漠』(河出書房)がありました。
こちらはアフリカと「神話」をテーマにした長編です。