日記のなかの文学たち
谷崎潤一郎編
朝ごはんのとき、昨夜、川床のジャズバーで舞妓さん、芸妓さんを見たことが話題に。
来年はぜひ「都をどり」を観にいこうと盛り上がりました。
そしてくたくたさんが持っていた『五世井上八千代襲名披露』のパンフレットをみせてもらいました。
(これは関係者しか持っていないレアもの。なぜ彼女がそれを持っているかは秘密だそうです)。
この五世井上八千代さんが襲名した「井上流」というのは祇園町の舞妓、芸妓さんたちの京舞の流儀です。
パンフレットを読むと、明治五年に「都をどり」が始まるときに、
それをリードした杉浦治郎右衛門(九代、為充)は京都では数少ない平田派の国学者だったとか、
一中節の「月の傾城」や「蓬生」の歌詞は折口信夫や谷崎潤一郎が作詞したとか、とても興味深い話題がみつかりました。
思わず自分がもっている「折口全集」や「谷崎全集」から、そのへんに関係のあるところを探したり、読んだりしました。
たとえば昭和十一年、「上方舞大会」を鑑賞した谷崎が、
井上流の舞を観て「祇園あたりの冬の夜のことを思ひ出して、感慨無量でありました」なんて書いている文章(全集二十四巻)。
そんな短い文章をあれこれ探して読んでいるうちに、今度はお昼ご飯の時間になっていました。
*
敬老の日でお休み。一日中家にこもって、「お楽しみ系読書」していました。
午前中は昨日買った、新潮日本文学アルバムの『谷崎潤一郎』。
写真つきの谷崎の評伝です。谷崎の三回の結婚について経緯は、
それぞれ「文学史」的にも有名ですが、あらためてそのへんも興味深く読みました。
でも、谷崎ってほんと「引越し魔」。七十九年の人生で四十回も引越ししたとか。
お昼ごはんを食べてから、今度は谷崎の三番目の奥さんの松子さんが書いた、
これも有名な随筆『倚松庵の夢』を通読しました。いや、面白い。
でも、松子さんの回想録読んでいると、谷崎の小説のストーリーのことなのか、
実際の生活のことなのか、こんがらがってきます。谷崎の松子さんへのラブレターなんかは、
ほとんど小説のなかに出てきてもおかしくないほど。それぐらい、谷崎の物語が、「リアリティ」あふれているからなのでしよう。
そういえば、昔『細雪』を没頭して読んでとき、例の山津波の事件が描かれているところを読んだ次の日、
朝の新聞を見て、一瞬、あの山津波のことはどうなったのかなんて思ったほどでした。
ちなみに、谷崎の小説で好きなのは『蓼喰う蟲』と『蘆刈』です。
これは年に一度は読み返している、みたいな耽読本です。
夜ご飯のあとは、谷崎晩年の随筆『雪後庵夜話』を読みました。
今日は谷崎デーでしたね。京都には谷崎関連の土地もあちこちあります。
今度、涼しくなったら、「谷崎文学散歩」をしようとくたくたさんに提案しました。さっそく彼女、地図であれこれ探してくれました。
*
食後、ちょっと一休みした後、谷崎の『吉野葛』を再読(初めて読んだのはいつだったか)。
この作品、そういえば「葛の葉」と結びついた「母恋い」の物語だったんですね。
登場人物が、信太の森を訪ねるシーン「絵馬堂に掲げてある子別れの場の絵馬や、
雀右衛門が誰かの似顔絵の額を眺めたりして、わずかに慰められて森を出たが、
ところどころの百姓家の障子の陰から、今もとんからり、とんからりと機を織る音が洩れて来るのを、
此の上もなくなつかしく聞いた」……。いいですね。
*
今日はさすがに疲れて、原稿仕事はパス。だから早々と寝てしまえばいいものを、
ついつい起きて本を読み出してしまったのでした。谷崎の『武州公秘話』。これも何度か目の再読ですが、いやいや面白い。
『武州公秘話』は、昭和六年ごろの作品で、谷崎のなかでは大衆小説ふうの「時代伝奇ロマン」といったもの。
主人公の武州公の少年時代のエピソードは、ほんとゾクゾクします。
城のなかの囚われの女性たちが、戦さで負けた武将たちの首を洗い、それに化粧していく。
その姿を垣間見た少年の武州公は、彼女たちの指の白くなまめかしい様子や、
首をじっと見入るときの頬にたたえられる仄かな微笑に魅入られ、
いつか自分も「首」となって彼女たちに化粧されたい、という被虐的な「性癖」に目覚めていく……。
*
授業を終えてから、府民ホール・アルティに、京都和文華の会主催「地歌はおもしろい」を聴きに行きました。
くたくたさんは、夏の単のお召し物。
久保田敏子先生のレクチャーと、菊原光治さんによる演奏という構成です。
地唄といえば「雪」という、情緒綿綿たる世界がお決まりですが、
この会ではふだんは聴けないような曲や、地唄がもっている芸の広がり、即興性や娯楽性、技巧性などを
ふんだんに紹介してくれました。
僕はずいぶん昔に、谷崎潤一郎の『蓼喰う蟲』で地唄のことを知り、
「三味線の音色も鈍く、ものうく、ぼんぼんという渋いひヾき…」とか、
「雪」の有名な合いの手の「外には雪が降ってゐて凍る夜空に遠く鐘の音が消えてゆく感じ」というところを、
レコードを買って実際に聴いたときの感動以来、秘かに愛好しているのでした。
ちなみに江戸音曲では、もうひとつ「新内節」も好きです。こっちは、どちらかというと荷風ふう世界。
くたくたさんも、以前、祇園の歌舞練場の仕事をしていたときに、
地唄の演目があって、「鉄輪」を聴いたそうです。とても渋かったとか。
彼女は、けっこう、うらやましい体験しているのでした。
今日の演奏会では、「鉄輪」や「黒髪」といった、怨みつらみの地唄とは趣きの違う、
けっこう賑やかで、技巧的な地唄の世界を紹介してくれました。
でも、最後のおしゃべりのところで、師匠の菊原初子さんの思い出話になり、
谷崎をめぐるエピソードを話してくれました。もっとそういうお話を聞きたかった…。
ちなみに、谷崎は、初子さんの父上の菊原検校の地唄を聞いて、そのすばらしさを知るのでした(谷崎の随筆「雪」より)。
*
夜の温泉のあとは、持参のモルトウイスキー「余市」をストレートで。
冷たいお茶とあいます。くたくたさんはすぐに酔っ払ってお休み。
僕は持ってきた谷崎潤一郎の「犯罪小説集」を読みながら、もうすこし飲みました。
*
今日はホテルに缶詰です。朝ごはんのあとは、ロビーで新聞を読み、部屋にもどって、谷崎の小説の続き。
『潤一郎ラビリンス』と題された中公文庫のシリーズ、
谷崎潤一郎の、有名な作品ではない、初期の頃の、どちらかといえば「B級」とされた短編が集められたシリーズです。
「文豪」「大谷崎」とは違う、谷崎の作品世界が味あえます。
「犯罪小説集」とタイトルがついた一冊には、犯罪者の心理や殺人トリックなどが描かれた作品が集められています。
みんな大正時代のもの。
「柳湯の事件」は東京の町の銭湯のなかに、
女性の死体が沈められているという幻覚にとらわれる主人公の話。
なんともその触感が生々しいのでした。
温泉のあと、夜中、またウイスキー飲みながら「犯罪小説集」の続き。
「呪われた戯曲」。妻殺しの計画を戯曲にして、
それを妻に読んで聞かせながら、筋書きとおりに殺してしまう男のことを小説家が書いた作品…。
すごく手の込んだ小説です。
*
夜は温泉。夜中なので他の泊り客もいません。
ひとりでゆったりとお湯に浸かります。出てきてからはまたまたウイスキー、
谷崎小説の続き。贅沢な時間が、こうして過ぎていくのでした。
*
深夜、ひと仕事したあとに、谷崎の『蓼喰う蟲』の、通人ぶる老人が人形のようなお久を連れて、
淡路の人形芝居見物に行く場面などを拾い読みしながら一杯飲んでいたら、いつのまにか三時がすぎていたのでした。
*
「都をどり」については、明治四十五年に、谷崎潤一郎が最初の「京都滞在」のときに、
観にいったエピソードが『朱雀日記』(全集第一巻)にあります。
御座敷の芸妓の舞には、魂が震えるような感動を味わっている谷崎さんも、
けばけばしい衣装と化粧の踊りの「俗悪さ」に、「見ているうちに馬鹿々々しくなって、
私は大の字に寝転んでしまった」とあります。そして祇園ではなく、
先斗町の加茂川踊りは「昔の風趣が残っている」と記しています。
*
午前中部屋で、谷崎の『蓼喰ふ虫』をぱらぱらと拾い読み。
もう何度読み返したかわからないぐらいの、僕の愛読作品のひとつです。
今週の月曜日、京都造形大学の講座で、淡路の人形浄瑠璃の実演を見てきたくたくたさんから、
パンフレット見せてもらったり、人形のしぐさや恵比寿回しの話を聞いているうちに、谷崎の小説の情景が浮かんできたからです。
『蓼喰ふ蟲』には、昭和の初めの頃の淡路の人形芝居を、
通人ぶりの老人と京女のお妾・お久、そして老人の義理の息子の三人で見物するシーンがあります。
持参の蒔絵の弁当箱に卵焼き、あなご、牛蒡、煮しめなどを詰めて、
村はずれの芝居小屋に出かけ、祭り気分の村人たちの騒然とした中で繰り広げられる
『朝顔日記』や『太功記』などの人形芝居を見物する場面は、読み返すたびに味が出てきます。
淡路の田舎町の往来。奥が真っ暗な町屋、白っちゃけた塀、
重い丸瓦で押さえた本葺きの甍、「うるし」「醤油」「油」などの文字が消えかかった看板、
屋号を染め抜いた紺暖簾…。
そんな昔の町の家に住んでいるのは、老人が連れているお久の幻影。
そして彼女は、いつか人形芝居のなかの、個性のない、
古びた小紋の黒餅の小袖を着た女形の人形の顔と重なっていく…。
『蓼喰ふ蟲』は、谷崎の「京女幻想」の極地の小説かもしれませんね。
ところで、なぜか僕は、夏になってくるととたんに谷崎の小説やら随筆やらが読みたくなってきます。
そして、冬や春にはあれほど面白かった荷風が、夏になるとなぜか読んでも感動が薄くなってくる。
荷風は、寒い冬の午後に炬燵に入って読むのがいい。
そして谷崎は、夏の暑い夜や、少し涼しくなってくる九月の終わりぐらいに読むのがいい。
って、これはまったく僕の個人的な「好み」ですが。
*
行き帰りの新幹線では、谷崎潤一郎『幼少時代』(岩波文庫)を読みました。
明治中期の、「江戸」の面影を残す東京下町の風景が、なんともけっこう。
これを読むと、谷崎が「京都」に住んだのは、そこに自分の幼少時代の「江戸=東京」を求めていたことがわかります。
*
泳いで、昼寝して、目が覚めたら読書。谷崎潤一郎の初期作品集から『鮫人』。
浅草の芸人たちの世界を描く小説ですが、これは『細雪』や『陰翳礼賛』の谷崎とはまったく違うタニザキの世界なのでした。
*
午後。暖かい陽が入ってくる居間の椅子にこしかけて読書の一日。
谷崎潤一郎の『卍(まんじ)』(全集11)。何度か目の再読。
関西言葉で語りつづられる女性の「同性愛」の濃密な世界です。
「こってり」とした味で、途中でもう「満腹」になってしまうのですが、
それでもやめることが出来ないのは、ともかくその文体と筋たての上手さに引き込まれてしまうからでしよう。
やっぱり谷崎は「文豪」なんだなぁと、いまさらながら再認識。
*
午後は、居間に腰掛けて読書。谷崎潤一郎『少将滋幹の母』(全集16)。
来週ぐらいにこの小説がテレビドラマ化されるということで、急に読み返したくなったのでした。
『平中物語』『今昔』『後撰集』『十訓抄』などの古典作品からエピソードを散りばめ、
最後は「遒古閣文庫所蔵」の滋幹の日記によって、
時平に連れ去られた母との再会の場面となります。
その日記は、ご丁寧に写本は残決が二三あるだけと注記されるのですが、もちろん架空のもの。
古典作品をめぐる随筆みたいな調子で描かれながら、
気がつくと「架空」の物語のなかに入っているという、まさに谷崎ならではの物語世界です。
さて、これがどう「ドラマ化」されるのでしようか。
*
南座で「能・狂言・京舞の会」を観にいきました。
能・狂言・京舞の三つの舞台がいっぺんに見ることができる特別イベント。
座席は三階を予約しました。
能は片山清司のシテで『舎利』、狂言は野村萬斎のシテで『蝸牛』、
そして京舞は五世・井上八千代と野村萬斎、
さらに祗園甲部の井上流名取の芸妓さんたち九人による『邯鄲』。
『舎利』は、足疾鬼と韋駄天との「戦い」の舞いが凄い。
また『邯鄲』は、井上八千代さんの盧生や、祗園甲部の売れっ子芸妓の真筝さんの帝とか、
ほんとうっとりするほどの美しさです。
でも、やっばり、僕たちに受けていたのは、野村萬斎の『蝸牛』ですね。
「でんでん む~し、む~し」のフレーズ、頭に残ります。
南座で京舞を観て、舞妓さんや芸妓さんやらを眺め、
ちょっと「谷崎ごっこ」に浸ったあとは、新宿歌舞伎町のとんかつ屋の夕食は、
なんかぴったりですね。(どこがぴったりなのか、説明しろといわれると困りますが)
それにしても、今夜の南座、これぞまさに「邯鄲の夢」でした。
*
日曜日なので、昼間はお楽しみ読書。
前から読もうと思っていた、小谷野敦さんの『谷崎潤一郎伝』(中央公論社)。
谷崎の作品論、作家論というのは、マゾヒズム・母恋い・日本回帰・物語構造論など相場が決まっているのですが、
小谷野さんのものは、徹底して谷崎の「実人生」、それも「ゴシップネタ」に徹しようというもの。
「ゴシップは文芸の源泉」というが、著者の立場です。
たしかに谷崎といえば、三度の結婚、妻譲渡事件、
人妻との密通、若い「愛人」との交流などゴシップネタがつきません。
小谷野本は、「これでもか」というほど、ゴシップネタを洗いだして、
たとえば通常広まっている三度目の妻の「松子神話」を解体していくところは、なかなかすごい。
こういう論調だと、な~んだ、谷崎もただのスケベ親父だったみたいなことに終わってしまうのですが、
小谷野氏は、そう思わせつつ、やっぱり谷崎の小説世界の魅力は棄てがたいということを論じています。
ともあれ、これまであまり注目されてこなかった、二度目の妻の「古川丁未子」の話題は、
なんとも凄い、というか、あきれる。さらに面白かったのは、
「家長」としての谷崎の姿。同じように「長男」だったのに、
谷崎と荷風との違いは、面白い。
しかし、ここまで他人の「ゴシップ」にこだわるのは、やっぱり、結局は谷崎の魅力なのでしようね。
僕的には、夏の暑い夜は、谷崎の、とくに大正時代の小説が読み返したくなるのでした。
*
久しぶりによく晴れた、夏の空です。ただ天気予報では、この「快晴」は本日だけで、明日からまた崩れるとか…。
ということで、夏休み恒例の「しょうざんプール」へ。
歩いて行けるところにある「リゾートふう」プールです。
午前中、僕だけが早くから行って、パラソルつきのデッキチェアーを確保。
久しぶりに水に浮いて、泳ぐのは、ほんとに快感です。昼近くにくたくたさんもやってきて、
例によってビート板使ってぷかぷか浮いています。
おにぎりを食べ、冷たいビールを飲み、ポテトフライを食べ、
お昼寝をして、目が覚めたら持ってきた谷崎の初期短編集を読み、暑くなったらまた泳ぐ…。
こんもりとした山が見え、蝉の声が聞こえてきて、ときどき涼しい風が吹いてきて、ほんと夏休み気分満点です。
*
夜中、原稿仕事がひと段落したら、気分転換の読書。
中公文庫版の『潤一郎ラビリンス』のシリーズで谷崎の初期短編を読んでいます。
「少年」「幇間」「秘密」「悪魔」などなど。デビュー直後のタニザキワールドです。
「人形町通りの空が霞んで、軒並の商家の紺暖簾にぽかぽかと日があたって、
捕り止めのない夢のような幼心…」(少年)、
「向島の土手は、桜が満開で…、もやもやとした藍色の光りの中に眠って、
其の後には公園の十二階が、水蒸気の多い、咽せ返るような紺青の空に、朦朧と立っています」(幇間)。
このころの谷崎の作品世界は、たしかに春の霞のなかの、
なんだかボーとした夢のなかの景色から始まるようです。
そしていくつかの作品を読みかえしていると、突然、忘れていた場面が、
まるで夢のなかの断片みたいに甦ってくる感じが面白い。
大都会の下町の、いつもは通らない神社の境内の裏手の路地とかに彷徨いこんでいくところとか、
そんな下町に忘れられたような古寺の庫裏の一間で「魔術だの、催眠術だの、探偵小説だの、化学だの、
解剖学だのゝ奇怪な説話と挿絵に富んでいる書物」を耽読している主人公が、
やがて小紋縮緬の袷などの女物の着物で変装して、深夜の街に繰り出していく…(秘密)。
谷崎世界の戦慄する感覚です。
それにしても、こういうタニザキ小説読みながら、
焼酎入りの冷たいグレープフルーツソーダーを飲むのが、なんとも夏休みっぽくていいんですね。
*
先週に続いて、しょうざんのプールへ。
一日中、ゆったりと泳いで、昼寝して、ビール飲んで、タニザキ小説を読んで過ごしました。
これぞ「夏休み!」って感じですね。
夕方になってくると、山のほうから涼しい風も吹いてきて、ちょっと冷たくなったプールで泳ぐのがいいのでした。
*
涼しい風が吹いてくる居間で終日、読書。
谷崎が昭和十七年ごろに発表した随筆「初昔」と「きのふけふ」を読みました。
「きのふけふ」は、谷崎が久しぶりに荷風と会って、対談をしたときのエピソード。
荷風が、着古した背広姿で、足は白足袋をはき、下駄を履いていた、
その姿が、なんともカッコいいとあります。目に浮かびますね。
「初昔」のほうは、二度目の奥さんと別れて、しばらく「独身」だったとき、
ひとりだったら、どんなところに住みたいか、なんてことが書かれています。
大阪の船場か島之内の路地の奥の長屋、または京都だったら嵯峨の天竜寺や大沢の池あたりの寺の一室。
そしてこんなことを夢想します。
「私は、朝夕小倉山の峰のあらしと釜の湯の沸る音に耳を傾け、書を読み、香を炷き、茶を喫し、
晴れた日には付近の名所旧蹟を探り、静かな夜には拙い三味線を独り弾いて独り楽しみ、
たまには京の市中へ買ひ物に出て、ついでに知人を訪ねたり祗園や京極の街の灯りを見たりして帰つて来る…」
でも、谷崎は森田松子と一緒に暮らすようになり、
今度は彼女とふたりであちこちに旅に出たときのエピソードが続きます。
「時雨の降る音」が聞こえてくる、彦根の旅館の一夜。
随筆のなかでは、松子夫人は「松女」と呼ばれています。
そして最後は「松女」が妊娠し、しかし体が弱かったために堕胎してしまう有名な場面へと展開していきます。
そのエピソードは、とてもリアルなのですが、なんだか読んでいるうちに、
ふと『細雪』みたいな文体になっていることを感じました。そうです、
この随筆書いているときは、じつは『細雪』を書き始める頃なのでした。
『細雪』は、即座に「時局」にふさわしくないと連載中止。さらに谷崎が個人的に印刷して、
知人に配ることさえも、軍当局の干渉で印刷頒布も禁止されてしまうのでした。
*
夜は、読み残していた小谷野さんの『谷崎潤一郎伝』の続き。
谷崎の系譜というか、家系図とかについても詳しい。
それを見ていたら、昭和三十五年に、松子の前夫との子どもの恵美子(谷崎の養女になる)は、
観世栄夫と結婚。栄夫は観世流銕之丞家の次男。
そして栄夫の弟の静夫の息子が「銕之丞」を受け継ぎ、祗園甲部の舞いの流派である
井上流の五代目・井上八千代と結婚しているのでした。
したがって谷崎と井上八千代さんとは親戚関係になるわけです。
恵美子の結婚式では、四代目の八千代が舞いを披露したとか。
この話をくたくたさんにしたら、結婚式で八千代さんの舞いが見られるなんて、「ありえへん」とか言ってました。
*
夜中に目がさめてしまい、お風呂に入り、冷蔵庫のモルツを飲みながら、
谷崎小説を読みました。女性にもてすぎた男の放蕩三昧の生活を描く「美男」(中公文庫版『潤一郎ラビリンス』)。
深夜の海辺のホテルに読むにふさわしい一編でした。
*
お風呂のあとは、沖の「自衛艦」の軍艦を眺めながら、
持参のボウモアをちびちび飲んで、くたくたさんが寝たあとは、谷崎小説の続き。
「熱風に吹かれて」(中公文庫版『潤一郎ラビリンス』)。
小田原あたりの海辺の避暑地の宿で繰り広げられる、若い男女の物語。大正期に書かれたものですが、なんとも「お洒落」…。
これぞ「和モダン」の世界です。
*
帰り道は、伊東の町にある「東海館」という、昭和三年に作られて、
今は建物を一般公開している「和モダン」の旅館を見学しました。
ぎしぎしとなる廊下や川を眺められる狭い客室は、なんとも昔ふうです。
でもこんな旅館に泊まってみたかった。
さらにところどころにある「書院窓」の飾りは、昔の職人さんたちの凝りに凝った技が発揮されていて、なんとも贅沢です。
時代劇に出てくるみたいな広い大広間も。
昔はここで伊東の芸者衆をあつめて大宴会とかがあったのでしようね。
大広間を見たくたくたさんは殿様ごっこが出来るとかいって、無邪気に喜んでいます。
さらに屋上には、「展望部屋」がついていて、伊東の町や海が一望できます。
古い旅館を見物していたら、
昨夜読んだ谷崎の小説に出てくる夏の避暑地の旅館というのもこんな感じかなと思えました。
館内の案内には、残念ながら谷崎が訪れた記録はないみたいですが、
川端康成や島崎藤村、田山花袋などが泊まったそうです。
田山花袋の『温泉めぐり』(岩波文庫)には、
「伊東の一夜」という文章があり、そこには、伊東は「魚市」なので、
熱海や箱根のような「温泉場」らしい、
「淫蕩な」「じっと落付いたようなそうした気分に乏しい」なんて、あります。
でも温泉だけは優れているとも。
<もどる>