日記のなかの文学たち 日本文学編

澁澤龍彦

 

書斎からあふれた本は、廊下の本棚に文庫本や小説、エッセー、詩集の類、

さらに居間の片隅の本棚には、荷風や谷崎の全集、ユルスナールや辻邦生、堀江敏幸、

その他美術史関係、画集などなどが入っています。まぁだいだい、

ここらへんの本は直接「仕事」とは関係がない「楽しみ読書系」といったところでしょうか。

ところで書斎の風景で、なんといっても素晴らしいのは、澁澤龍彦の部屋の写真ですね(『太陽』91年4月号など)。

 

澁澤の書斎にあこがれている人って、けっこう多いのでは。僕の小さな書斎に地球儀があるのは、当然、澁澤の書斎のまね()

 


19
日の日記の「澁澤龍彦の部屋」をリンクしてご覧なった方いらっしゃいますか。

澁澤の書斎の風景や、書棚に並んでいる本が一冊、一冊克明に写されて驚きです。

澁澤ファンはもちろん、ファンでない人も一見の価値あり。

 

澁澤の本は、文庫でも手軽に買えて、最近は俄ファンが増えているみたい。まぁ、僕もファンになったのは最近です。

 

高校生のとき、僕のまわりには「澁澤マニア」がたくさんいて、彼らは研究会とかを作っていました。

だから僕も当然「澁澤龍彦」の名前は知ってましたが、

その頃の僕は吉本隆明系の「政治小僧」だったので、「澁澤龍彦」は横目で見ながら、なんとなく距離をもってました。

 

でも「大人」になってから読み出したら、面白いのなんのって。

当然、ベストワンは『黒魔術の手帖』。

その他『ヨーロッパの乳房』『スクリーンの夢魔』『悪魔の中世』とかが好きですね。

もちろん遺作となった『高丘親王航海記』も。

そういえば、澁澤は安倍晴明を主人公にした「三つの髑髏」(『文藝別冊・安倍晴明』に入っている)なんてのも書いてます。

「政治の世界からは超然とした、学問と魔術にのみ専念する、闇の領分の支配者…」なんていうのは、ほんと晴明ファンを泣かせる一節。

 

なお最近出た、澁澤夫人の澁澤龍子さんが書いた『澁澤龍彦との日々』(白水社)は、ほんといい本でした。思わず、最後は泣いてしまいました。

 



お昼の休憩に、澁澤龍彦『異端の肖像』(河出文庫)の「バヴァリアの狂王」読みました。ルートヴィヒ二世をめぐるエッセイです。

 

澁澤はビスコンティの映画が公開されるまえにこれを書いていますが、

ルートヴィヒ二世はヴェルレーヌ、アポリネール、コクトー、ダリ、そして森鴎外など、

ある傾向の作家や芸術家たちから深い注目を集める存在でした。そのなかで澁澤は次のように語ります。

「わたしはこのルドヴィヒ二世を、ヒトラーを生み出したと同じドイツの土壌に芽生えた、

ロマン主義のもっとも衰弱した形式の一体現者として眺めており、

この王の均衡を失った人格のなかに、

芸術と権力をめぐる二十世紀の尖鋭な危機意識の遠い反映を認める」

この文章を書いた頃(昭和四十一年)の澁澤龍彦が意外に「政治的」だったことを教えてくれる一節です。

でも、この視線が「王」を論じるうえでは必要なのですね。

 

途中、気分転換に読書。山尾さんの小説から、久しぶりに澁澤龍彦のエッセイを読みました

。山尾さんが「遠近法」を書くときに、インスパイアされた『幻想の彼方へ』や『夢の宇宙誌』(河出文庫)。

澁澤本は、それなりに読んだつもりでいたのですが、あらためて読み直すと、

澁澤世界のメインとなる『夢の宇宙誌』の諸論は読んでいなかったようです。恥ずかしい〜。

六十年代に書かれた「世界の終わりについて」「アンドロギュヌスについて」など、

出てくる話題は別のエッセイとも重なっているようですが、やはり六十年代に書かれた文章は、

なんともいえない緊張感というか、「若さ」があっていいですね。

今、澁澤本を読むと、これがまさしく「神話学」の世界であることを、再認識。

また「中世」というのが澁澤ワールドのキーワードであることも、今さらながらわかってきました。

「神話学」というと、どうしても欧米系のものと思いがちですが、

澁澤が紹介してくれる世界は、日本中世の日本紀注釈や吉田神道、

さらに近世の宣長、篤胤の注釈世界とけっこう繋がりがあることが見えてきます。

神話学の生成、ということを日本の中世、近世の側から再考することが必要ですね。

これは前から漠然と思っていることですが…。

 

多田智満子

深夜、勉強終わって、ウイスキー飲みながら、多田智満子の詩集『祝火』、読みました。

そのなかに「神はつねに数学する」なんていう一節が。この一句がどんな意味をもつか書きたいのですが、

もう酔っ払ってきたので、明日にします。

たとえばジョン・ディーの次のような見解は、「神話と数学」という思いがけないテーマを導きそうです。

「神は数えることを通じて、秩序正しく明確にあらゆるものを生み出した。

なぜなら、神の数えるという行為はあらゆるものを創造することだったからだ…」(『エリザベス朝の魔術師』)。

この一節を読んだとき、僕は、『古事記』の神話で、神々の系譜を述べるときに、
その神さまたちの「数」にこだわっていることを思い出したのでした。
「数」そして数えるという行為…。それは神話にとって欠かせないことだ、と。

ここで昨夜読んだ、多田智満子『祝火』(小沢書店)「数の創成記」に出てくる、
「神はつねに数学する」なんていう、ゾクッとする一節とリンクしてくるのでした。

そして「数学」とは、天体の星の動きを測ること、天文占星術=天の意思を知る術(マルス)と不可分です。

神話と数学。そして占星術…。とても魅力的なテーマですが、
じつは、僕は「数学」って一番苦手な科目なのでした。う〜、勉強しなくっちゃ。

 


堀江敏幸

夜中、仕事を終えて、軽くウイスキー飲みながら、お楽しみ読書。堀江敏幸の最新エッセー『もののはずみ』(角川書店)。

外に出てみたら、雪はやんで空も晴れて、欠けた月が沈んでいくのが見えました。

二時で仕事は「閉店」。そのあとは筍ご飯のおにぎりで軽くウイスキーを飲みながら、趣味系読書。
堀江敏幸の『子午線を求めて』(思潮社)。

ほとんど聞いたことのないフランスのマイナーな作家たちの小説の「書評」は、
まるでそれ自体が短編小説を読んでいるみたいな気分にさせてくれます。

堀江さんの文章は、とても「静か」で、気持ちが落ち着くのでした。

 

夜は、現代小説。二年前ほどに一度読んだ、堀江敏幸『熊の敷石』(講談社)の再読。

 

フランス・ノルマンディ地方の農村を舞台とした、とても静謐な時間が流れる物語です。
ユダヤ人問題や、生まれたときから眼球がない少年とか、けっこう重たい話題が語られていますが、
堀江さんの小説は、そうした話も、淡々と静かに展開していくのでした。僕の好きな小説のひとつです。

小説を読み終えた頃、けっこう強い雨音が聞こえていました。

原稿仕事のあとは、ウイスキーを軽く一杯。堀江敏幸『子午線を求めて』のエッセー。
七十歳近い、フランスの代表的詩人、ジャック・レダとのゆっくりとした散策のエピソードは、いいですね。

こんな休日の午後の読書は…。
堀江敏幸の小説。以前に読んだ『いつか王子駅で』(新潮社)の再読です。

堀江さんの小説のことは、この日記にも何度か登場していますが、
ぼくがひそかに愛読している作家。繰り返し読んで楽しむことができるのでした。

『いつか王子駅で』は、翻訳業兼非常勤講師の主人公が、東京・荒川の「下町」に下宿し、
ちいさな居酒屋の、コーヒーを淹れるのがうまい女将、背中に彫り物のある印章彫りの正吉さん、
古米を売っている米屋や古書の主人筧さん、下宿さきの旋盤工場の社長・米倉さん、
その娘の中学生咲ちゃん、老いた職工の林さんといった下町の人々とのの交流を「滋味ゆたかに」描きます。

ストーリーだけみると、なんだか昔の「東芝日曜劇場」の人情ドラマみたいです。

そのドラマのあいだに島村利正や瀧井孝作といった、
もはや「忘れられた」作家たちの作品についての紹介や感想などが挟まれて、
知的なエッセイみたいな雰囲気ももつのでした。人情ドラマと知的エッセイの融合というのが、なんともすごい。
小説の紹介のしかたがとてもうまく、思わず読みたくなってしまうのでした。

「島村利正」なんていう作家はまったく知らなかったのですが、
堀江さんに釣られて、古本屋で全集を買ってしまいました。

堀江敏幸…。日曜日、ちょっと体を休めようという日には、もってこいの小説です。

深夜二時ぐらいまで、原稿書いて、それから軽くボウモアを飲みながら、
以前に読んだ堀江敏幸さんの『河岸忘日抄』(新潮社)を再読。

セーヌと思しき河岸の船で生活する「彼」をめぐる小説ともエッセイともつかぬ作品です。

堀江敏幸『河岸忘日抄』の再読、続き。

セーヌ川に停留した小型船を仮の住まいとした「彼」の物語。登場するのは、
時々やってくる西アフリカ出身の郵便配達夫や船の持ち主である、元ワインの樽を運送していた船乗りの老人ぐらい。
頑固一徹な老人と、世を降りてしまいかけた「彼」との、なんかちょっとズレた会話がいい。

部屋の持ち主の頑固なフランス老人と日本人留学生とのやりとりというシチュエーションは、
山田稔の『コーマルタン界隈』(みすず書房)にもありました。

そういえば、みすず版の『コーマルタン界隈』の解説を堀江さんが書いていて、
その滋味たっぷりな文章を読んで、知られざる老作家かと思っていたら、
僕よりも若いフランス文学者、作家と知って驚いたのが、堀江氏の作品を読み出したきっかけなのでした。

夕方、ふたたび共有スペースに。今度は、チビールを飲みながら、
暮れていく山の景色を眺めました。太陽が山の端に入ると、明るい緑の山は影のなかに沈んでいき、
見る見るあたりが暗くなっていきます。

じつは堀江さんの本のなかで、「彼」が、深夜に船のデッキで生ぬるい川風に吹かれてビールを飲む場面が出てきて、
思わず僕もビールが飲みたくなったのでした。

*                                    

 

夜は新しく買ったグラスでラフロイグのソーダー割を一杯。
ラフロイグの後は、もう少し飲みたい気分で、次はボウモアのストレート。
冷たい麦茶とともに。仕事のあとは、とても心地よい酔いが…。

飲みながら、堀江敏幸さんの新刊『バン・マリーへの手紙』(岩波書店)。

入浴後、夜中の二時まで原稿執筆、続行。乗って書けると、ほんと気分がいいですね。
気持ちが高揚したので、仕事のあとは、ウイスキーを軽く一杯飲みながら、
堀江敏幸の代表作『おぱらばん』(青土社)の「留守番電話の詩人」を再読。

この小説(?)かなり前に読んだはずですが、ほとんど内容を忘れていました。

でも読み始めたら、フランスの動物園の河馬の絵葉書をめぐるエピソードを思いだしてきました。
なんか忘れてしまった夢のなかの話を急に思い出すみたいな、そんな不思議な気分。

雨の夜にふさわしい一編でした。

 

入浴後は、持参したウイスキーをふたりで飲みながらお喋り。
ボウモアを冷たい水と一対一で割る「トワイス・アップ」。外はライトアップされてなんともシュールな景色です。
音楽は有線放送でスロー・ジャズ。


僕はもう一杯飲みながら読書。

 

堀江敏幸の新刊エッセイ『アイロンと朝の詩人』(中央公論社)。

 

最近の堀江さんのエッセイは、ときどき鼻につくような感じもなくはないですが、
でもやっぱりうまい文章だなぁと、ついつい読んでしまうのでした。


受験で仮住まいした早稲田の下宿で知り合った飲み屋の女将の話。
ロジェ・グルニエや山田稔との出会いの話。高尾からのバスの小旅行の話などなど。
なんということのないエピソードなのに、ゆったりと酔わせてくれる文章ですね

 

夜は少し気分よくなってきたので、読書。堀江敏幸『おぱらばん』(青土社)。
以前に読んだものですが、あらためてページをめくってみると、読み残している部分があるみたい。

マイノリティの人たちが住むパリの裏町界隈の日常のエピソードと、
読んだ小説の感想、批評みたいなところがうまく調合されていく文章は、たしかに絶妙ですね。

たまたま乗り合わせたタクシーが事故になり、その運転手と道路の片隅で
バケットやバナナを食べながら「クウェート」への思いを語る(「クウェートの夕暮れ」)、
取り壊された中央市場で威勢のいい女将さんや馬鈴薯と珈琲豆を売る黒人青年のエピソード(「珈琲と馬鈴薯」)。

ちょっと体の調子が悪いときに読むのにもってこいの小品でした。
そしてあらためて堀江さんの世界はドアノーの写真の世界と通じているんだなと実感。

 

日夏耿之介

 

本屋で本購入。新刊の日夏耿之介『荷風文学』(平凡社)を買いました。この本、荷風絶賛の一冊です。

日夏耿之介って、ほとんど知られていないと思いますが、
イギリス文学の研究者であると同時に「ゴシック・ロマン体」の荘重幽玄な作風の詩人です。

 

「夢たをやかな密咒を誦すてふ/蕃神のやうな黄老が逝つた/「秋」のことく「幸福」のことく/「来し方」のことく…」
(
「咒文乃周囲」)なんていうゾクッとする詩があります。また「全神秘思想の鳥瞰景」という評論も面白いです。

詩は思潮社の現代詩文庫に入っていますが、他の評論や研究書はなかなか手に入らず、
以前、古本屋でけっこう高い値段の『日夏耿之介撰集』を買ったとたんに、
ちくま文庫で次々と『吸血妖魅考』、『サバト恠異帖』や『日夏耿之介文集』などが刊行されたのでした。
文庫が出るということは、最近、日夏耿之介のファンが急増中ということらしいです。

日夏は、澁澤龍彦や種村季弘などがお得意の魔術・錬金術・心霊術・薔薇十字会・フリーメーソンなど
近代ヨーロッパのオカルティズムやデモノロジーなどの世界をいち早く紹介・研究し、
ヨーロッパ象徴主義とオカルティズムとの相関性を的確に掴んでいた先駆者であったわけです。

 

そんな日夏耿之介が、我が愛読の荷風を絶賛するというのは、なんともうれしい限り。
『荷風文学』、年末のお楽しみ系読書に取っておきましよう。

 



夜、「日本神話」の原稿執筆。文章が詰まると、日夏耿之介の詩集をパラパラとめくり、好きな詩の拾い読み。

「夢たをやかな密咒を誦すてふ/蕃神のやうな黄老が逝った/「秋」のことく「幸福」のことく「来し方」のことく」(「咒文及周囲」)

深夜、寝る前に外に出てみたら、雨がしとしとと降り始めていました。

 

高橋たか子

朝の新聞に高橋たか子のことが載っていました。
高橋たか子なんて、知る人も少ないかもしれません。
「全共闘世代」に絶大な人気をもち、三十代で亡くなった高橋和巳の奥さんで、
和巳が亡くなったあとはカトリックへ入信し、その後小説を書き始めた、という作家です。

『土地の力』(女子パウロ会)や『亡命者』(講談社)は読んで、
けっこうこの作家の「霊的著作」というのは面白かったのですが、
それに入っていく前の、つまり高橋たか子が「修道者」の生活を始める前の作品にあたる
『装いせよ、わが魂よ』(講談社)は、昔読み出して途中で挫折したので、あらためて読み始めました。

パリでの生活体験やキリスト教の「神」との出会いの体験とかを、
あからさまに、なんの衒いもなく語る口調には、最初は抵抗があるのですが、
読んでいくとけっこうはまってしまいます。やはり語りの力でしようか。

『装いせよ…』の主人公・山川波子が、パリの教会の地下にあるパイプオルガンを弾くところから、
オルガンという楽器の内部から立ち上がってくる霊性にひきつけられ、
やがてフランスの山奥で行われる「カリスマ的集会」に参加して…。このあたりは作者自身の体験ともだぶっているみたいです。

それにしても、高橋たか子を久しぶりに読んだら、
急にバッハのコラールが聴きたくなってきて、
手持ちのCDの「オルガン小曲集」を聴きました。演奏は16歳で失明し、
バッハの全オルガン曲を暗譜しているというヘルムート・ヴァルヒャ。

深夜、書斎で、バッハのコラールを聴きながら、高橋たか子世界に浸りました。

 

雨に降り込められた日曜日の午後は、静かに読書。
高橋たか子の『装いせよ、わが魂よ』読了。そのあとは、
彼女のエッセイ集『どこか或る家』(講談社文芸文庫)を拾い読み。

「宗教は夜に成立する」という意味深な言葉がありました。

 

夜は読書。高橋たか子の新作『過ぎ行く人たち』(女子パウロ会)を読みました。

主人公の「私」が、ノルウェーで出会った「ブノワ」という名前の少年に導かれて、
パリの「聖ジェルマン・デ・プレ教会」、
フランス地方都市の「ソレム」のベネディクト会の男子修道院、
「コンク」の小さな地方教会や「ロデス」の村、
さらにパリ十四区の「精神病院」、フランス西南部「サント」の村、
そして最後は「ルルド」の聖地へと旅をする物語。

へたをすれば、今ふうの「スピリチュアルなフランス旅行記」みたいな安っぽい物語になってしまうところを、
高橋さんの作品は、適度な観念性と、そしてなによりも独特な「詩」のような散文の文体の緊張感によって、
読み応えのある「物語」に仕立てています。

「ブノワ」とは、フランス語で「ベネディクト」のこと。さらにその名前は「フランス」の歴史の深層に関わる名前と拡大していくのでした。


島村利正

 

先週はシンポジウムや東京講座が続き、さすがに疲れました。今日は家でお休み。日曜日です。
こんなときは、「滋味あふれる」小説に浸りましよう。

ということで、午後は島村利正の三連作。「潮来」「神田連雀町」「佃島薄暮」(全集・第四巻)。

 

昭和三十年ごろ、千葉の犬吠崎あたりの漁村や東京神田・湯島あたりを舞台に、
年老いた伯父と義理の姪との関係を描く小説。書きようによっては、とてもドロドロした内容になるはずですが、
モノトーンの昔の日本映画みたいな、淡々とした描写です。主人公の姪の佳津子は、それこそ若尾文子のイメージ。

島村利正の小説は、堀江さんの紹介で知りました。島村利正の小説世界は、
じつは堀江敏幸の「職人」の世界にも通じるものがあったのでした。

それにしても「島村利正」なんて、もう忘れられた作家と思いますが、
最近、講談社の文芸文庫に短編集が入りました(「神田連雀町」「佃島薄暮」は所収)。堀江経由のファンができつつあるのか。

 

文庫解説によれば、島村利正の小説は、「色彩を軟らかくした泉鏡花」「鏡花の情緒を取り込んだ徳田秋聲」とあります。
なるほど、うまい批評です。

 

夕食は奮発して食堂車の「仏蘭西料理」を予約。
クラッシックな食堂車のテーブルに腰掛け、フレンチのディナー。
味はこの際文句はいいません。赤ワインのハーフを飲み、真っ暗な夜景のなかに浮かぶ海岸や森を眺めつつ、
ひとり旅を満喫しました。

個室にもどってからは、持参したボウモアのミニボトル(くたくたさんが通販で購入)をちびちび飲みながら、
島村利正『奈良登大路町・妙高の秋(講談社文芸文庫)の短編読書。
奈良にある「飛鳥園」という美術出版社をめぐるエピソードや、郷里の信州の情景など、淡々とした描写がなんともいい。

芥川龍之介

原稿書きつつ、まえから気になっていた芥川龍之介の『素戔烏尊』『老いたる素戔烏尊』(岩波版全集6)を読みました。

芥川が描くスサノヲは「神」ではなく、自分で自分の力を制御できない「野人」。
村のなかで力比べをしているうちに、仲間を殺してしまう。
さらに好きな女性にバカにされ、友人にも裏切られることで、村に放火し、そのために村人から追放されていく。

面白いのは、『古事記』では挿入されたエピソードとされる食物神オホゲツヒメを殺害する神話は、
スサノヲを「性の虜」にする魔女のように描かれていきます。このあたりが小説のクライマックス。

そしてヤマタノヲロチの退治は「神々の謎が解ける時」という具合に、
なにやら暗示的な表現となっていて、実際にはヲロチとの戦いのシーンはなく終わります。

ともあれ芥川版スサノヲも、読み替えられた日本神話として、とても興味深い作品ですね。

 

 

岡本綺堂

 

仙台への行き帰りの車中では、岩波文庫の『岡本綺堂随筆集』を読みました。
いわずと知れた「半七捕物帳」の作者です。

今日は、休日なので、その随筆の続きを拾い読み。

綺堂の父は、幕臣。「維新」のときは江戸城から脱走して、
宇都宮、白河まで転戦した経歴があります。そんな父との思い出が、たとえば「江戸の残党」。

子どもの頃に父親に連れられたおでん屋の亭主と父がわけありに挨拶をするので、
あとで聞くと、亭主はじつは「旗本八万騎」のひとりで、身を落として今はおでん屋をしているとか。

また修善寺温泉のひとり旅のことや妙義山に登ったときの話など、読んでいるとうっとりしてきます。

信州路から上州を越えていく旅人が山中で山蛭に吸われたりすると、
妙義の宿の女郎に「ふくみ水」で吸われた腕を洗ってもらうとか。
「ふくみ水」とは、水を口にふくんで手拭などに浸す方法です。
この話を山の案内者から聞いた綺堂は、こんな場面を想像します。

「うす暗い座敷で行灯の火が山風にゆれています。
江戸絵を貼った屏風をうしろにして、若い旅人が白い腕をまくっていると、
若い遊女が紅さした口に水をふくんで、これをみす紙に浸して男の腕を拭いています。
窓の外では谷川の音が聞えます…」(「山霧」)

綺堂は劇作家です。幼いときに父に連れられて島原の「新富座」に歌舞伎を観にいくことが多かった。
昔の劇場では、幕間は、けっこう時間があって、
子どもの綺堂は父や姉と一緒に往来に出て、「辻占せんべい」を買ってもらう(「島原の夢」)。

明治初期の、ほんとうに「江戸」がついこのあいだまであったことが伝わってくる随筆でした。

 

 

執筆仕事のあいまに、通販の古本屋で購入した、岡本綺堂の小説を読み出しました。
まずは『半七捕物帳』。そして情話集のなかから、名作「箕輪の心中」。

そのあとウイスキーを軽く飲みながら綺堂小説。「箕輪の心中」。さすが面白いです。

近くのいつも行くお蕎麦屋さんで昼食。ご飯のあとは、
次の教授会まで時間があるので、散歩がてら「しょうざん」に行って、コーヒータイム。

御土居公園から眺める景色は、山の麓のあちこちに白や赤の梅が咲いているのが見えて、
なんか「山里の早い春」という雰囲気です。

しょうざんの喫茶店で、コーヒー飲みながら、読み残してある岡本綺堂の随筆集をパラパラ。
この随筆集、食事のあとやコーヒー飲みながら、軽く読むのに、もってこいの一冊です。

そのなかの一編。「お染風」。

明治二十年代の冬、東京ではインフルエンザが流行ったが、
その流行感冒のことを人びとは「お染風」と呼んだという。

お染とは、『お染久松色読販』などの歌舞伎、浄瑠璃でお馴染みの女性で、
お染が久松に惚れたように、すぐに感染するという謎かけによる命名だろうと、綺堂は推測します。

そこで当時の東京近郊では、お染風に取り憑かれる患者は久松であるので、
その病をふせぐために、家の門口に「久松留守」という貼り札を貼ることが流行ったのでした。綺堂はこんなふうな思い出を描きます。

風のない暖かい春の一日、叔父と向島の梅屋敷に行ったとき、
三囲の土手を歩いていると、一軒の農家の軒先で、白い手拭をかぶった十七、八の若い娘が、
今書いたばかりの女文字の「久松るす」という紙札を貼っていた。軒の側には、白い梅が咲いていた…。

ところで、インフルエンザを防ぐための「久松留守」というお札のことから、
いざなぎ流の「天下正の祭文」のことを思い出しました。

祭文では病気の侵入を防ぐために、逆に病気の親玉である天下正(牛頭天王)の行き先を巨旦長者の屋敷に定め、
その屋敷には美しい乙姫君が待っているから、早くそっちに行けと唱えていくのです。

この祭文の発想も、「お染風」「久松留守」というお札を考えだす江戸の人びとの世界に通じているのでしよう。

佐藤春夫

昨日、今日とゆっくりと家で過ごしています。川本三郎『大正幻影』(ちくま文庫)。
川本さんが「四十歳を過ぎたころかせなぜか無性に隅田川に心惹かれるようになった」という、
「東京」と作家たちのかかわりを探索していく「デビュー本」です。

週末になると、日本橋蠣殻町にある家族経営のちいさなホテルに一泊して、
荷風や谷崎、芥川龍之介や佐藤春夫の小品を楽しみながら読んだ…
「私にとってそれは黄金の時だった」なんてあります。そんな気分も伝わってくる大正期の「文学」に関する評論集です。

なるほど、佐藤春夫の小説が読んでみたくなりました。

夜は気分を変えて、佐藤春夫の「西班牙犬の家」(岩波文庫『美しき家・西班牙の犬』)。

オオ〜、なんとも不思議な小説。

林のなかの洋館にいた西班牙犬は、五十格好の眼鏡をかけた黒服の中老人になり、
大きな机の前の椅子に腰掛けて、悠然と火をつけぬままの煙草をくわえて、机の上の大型の本をめくりはじめる…。

この小説、「夢心地になることの好きな人々の為めの短編」とサブタイトルがついています。

山尾悠子

夜はまだ原稿書く気力が湧いてこないので、こういうときは楽しい読書にかぎると、
以前から読もう、読もうと思っていた一冊を本棚から取り出しました。

『山尾悠子作品集成』(国書刊行会)。ちょっと手にとり、ページをめくったら、一気にその世界に連れていかれました。

まずは名作中の名作「夢の棲む街」。

漏斗のような形になっている街の「噂の運び屋」=〈夢喰い虫〉のバク。
骨が曲がった畸形の上半身のうえに、見事に発達した美しい〈薔薇色の脚〉をもつ踊子たち。
体が繋がった天使たちがいる屋根裏部屋、水を怖がる人魚たちのいる地下室、
そんな不思議の「女性」たちを斡旋する淫売宿の女将。そしてその宿に飼われている嗜眠症の侏儒(コビト)。

最後は、街が崩壊していくカタストロフの場面、そして飛翔していく侏儒(コビト)…。

いやはや、とても僕の言葉では、山尾さんの世界は書きつくせないですね。

僕が一番好きな場面は、「街の夜空」のシーンです。

夜空の星は、星座を作るために無数の星々が隙間なく連なり白い線となって
「人面花、天の海豚、番いの蜻蛉、笛吹き男」などの輪郭を作っている。そしてその星座たちは、
毎晩上ってくるたびに、その姿が少しずつ違っているという噂が街に広がる。

たとえば天の北と南にわかれていた山羊飼いの女と蟋蟀使いの奇術師が、
翌晩にはふたりが夜空の中央で熱っぽく絡み合っている、というように。

そして街の人びとは、ふと夜空を見上げたとき、
星座がつくる顔のひとつと目があうような、そんな恐怖を味わう…。

山尾さんの小説は、以前に『ラピリラズリ』(国書刊行会)を読んで、
けっこう好きな世界だと気に入っていたのですが、もっと早くこの『作品集成』も読めばよかった。

神話を論じるにあたっての「書き方」を、山尾さんの小説読んでから、あれこれと思案…。

帰宅後は、山尾悠子の作品集成の続き。今宵は「ムーンゲイト」。

こちらはちょっと東洋系の世界で、異形の姫「水蛇」と水界の童子「銀眼」の物語。
そして結末はやはり「大洪水」へ。

山尾悠子は、七十年代前半に、二十代で『SFマガジン』の新人賞でデビューし、
その物語世界の緻密さ、駆使される言葉な端麗さによって、SFファン、
幻想文学マニアを魅了するいくつかの作品を発表したあとに、忽然と姿を消した…。
その存在は「伝説の作家」「幻の作家」と呼ばれていました。

その山尾さんが、二十世紀末からふたたび創作活動を再開し、
2003年に刊行したのが『ラピリラズリ』です。作品集成は2000年に刊行され、
それまで入手が困難だった初期の作品も読めるようになったわけです。

山尾さんは、学生時代を京都ですごし、同志社大学の国文科卒業で、なんと僕と同い年。
その作品世界は、澁澤龍彦からインスパイアされたものが多く、経歴を見ると、
なんか自分の高校、大学のときの「文学環境」が思い出されるのでした。
しかし、残念ながら「同時代」としては、山尾作品に触れることはなかった…。

あらためてネットで検索してみると、山尾ファン(隠れファン)って、そうとういるみたいですね。

そういえば、昨年お会いしたG社の編集者のHさんも、かなりの山尾フリークなのでは…。
僕がちょっと、話をふったら、『ラピスラズリ』という(じつは、僕はそのタイトルが覚えられなかった…)、
不思議なタイトルを即座に口にしていましたね。

あのとき、もっと山尾作品の魅力を伺えばよかった…。

原稿書きが一段落したら、ふたたび山尾悠子の小説世界へ。
本日は、山尾ワールドの代表作のひとつ「遠近法」を読みました。

物語の舞台は、中央部は空洞になり、頂上と基底は存在しない「腸詰宇宙」と呼ばれる円筒形の内部。
空洞を囲む内壁には、無数の環状の回廊があり、それは円筒の内側に無数にある。
人びとはその回廊の内側に棲んでいる…。

そこに棲む人間たちは、自分たちの「宇宙」が、いつ、どのようにして出来たかを知らない。
そして物語は、その「宇宙」の秘密を探る試みと、少しずつ「宇宙」が滅んでいく過程が描かれていきます。
まさに「天地創世神話」と「天地終末神話」とが、まるでペアになっているような世界…。

あるとき、「腸詰宇宙」の創造の現場に立ち会った唯一の老人が、
中央回廊の上層、九万階上方に生きているという噂が伝わる。老人は、自分の年齢さえ知らず、
宇宙が作られた一昼夜の記憶の中にのみ生きているともいう。

中央回廊の「選ばれた男たち」が、縄梯子を伝わって九万階上の回廊へまで旅立ったが、
ようやく九万階上方の回廊に辿り着くと、そこで知らされたのは、
ここから九万階下方の回廊に、宇宙の起源に立ち会った老人が住んでいるという噂だった…。

それにしても、こういうふうに山尾作品の内容をまとめていると、
ほんと自分の言葉や文章力の貧しさを思い知らされますね。

山尾作品を読み、その語り口に酔いしれながら、その語り口を、
自分がいま『古事記』の神話世界について論じている、その論じるときの表現に応用できないか、
なんて不遜なことを考えてしまうのでした。

でも、山尾作品を読むと、あらためて『古事記』が「幻想文学」の起源だったのだと、なんてことを思ってしまう。

最近、山尾悠子の小説を読んで「神話世界」を記述する文体をあれこれと工夫しています。
『古事記』の内容の概要を紹介するところが、意外と大変です。

たんなる現代語訳だと味気ないし、かといって、
こちらで脚色した表現にすると二流のファンタジーみたいな文章になってしまう。

ようするに、『古事記』の神話解読は、その物語の概要をどう書くか、
ということが大切なのだと、あらためて思いました。
その書き方を山尾さんの小説から「学び」たいのですが、そんなことは畏れ多いですね。

山尾小説は、その後「透明族に関するエスキス」「蝕」を読みましたが、
やはり「夢の棲む街」「遠近法」がずば抜けて面白いです。

蒲原有明

二時で一区切りつけて、夜ご飯の残りの大豆入りおにぎりをムシャムシャ食べながら、
ウイスキーを一杯。ゆっくり飲みつつ、蒲原有明の詩集(現代詩文庫・思潮社)などをめくっていくと、
陶然たる境地になっていくのでした。

生田耕作

入浴後、夜中まで「日本神話」の原稿仕事。そのあとは、
例によって、残りの肉じゃがを肴に、軽く一杯飲みながら、
今日特別に入手した『ユリイカ』のバックナンバー、特集「デカダンス」(1978年10月号)を広げました。

生田耕作氏のなんとも味のある文章に惚れ惚れして、
そのまま本棚から生田耕作『黒い文学館』(中公文庫)を探し出して拾い読み。って、

気がついたら三時すぎてました。

卒論の査読、試問の夜は原稿仕事はお休み。
七十年代に刊行された『ユリイカ』臨時増刊号の「オカルティズム」特集号(74年)を読んでいました。

表紙は沢渡朔、渡辺一夫「ヴァンセンヌ離宮で行なわれた「死人の首占ひ」の話」、
澁澤龍彦「サラマンドラよ、燃えよ」、有田忠郎「鉱物の夢と種子の秘儀」、
由良君美「日本オカルティズム?」、高橋たか子「『砂男』の神秘」などなど。凄い豪華なメンバーですね。

 

鏡花

午前中は、頑張って机にむかって勉強していたのですが、
なんか頭がぼ〜として、体もだるいので、午後からは居間の椅子でお楽しみ読書。
以前に読んだ荷風の小説のなかに出ていた泉鏡花の「葛飾砂子」(泉鏡花集成3 ちくま文庫)を読みました。

鏡花の文章は、最初、ちょっと取っ付きにくいのですが、慣れてくると、
ほんと「芝居」を見ているような気分にさせてくれます。明治の東京の路地裏の世界。
なるほど、荷風の「来訪者」は、このイメージを使ったのだなと、勝手に理解。

江戸川乱歩

彼女が早々に酔っ払って寝てしまったあとは、僕はさらにボウモアとかをちびちび飲みながら、
深夜の読書。持ってきたのは、岩波文庫の最新刊『江戸川乱歩短編集』。
乱歩デビュー作の「二銭銅貨」は初めて読みました。

お風呂のあとは、またまたラフロイグのソーダー割り飲みながら、
乱歩の短編集。やっぱり「屋根裏の散歩者」で、本領発揮ですね。

夏目漱石

漱石の『草枕』(岩波文庫)を読みました。

この小説、ずっと昔に読んだはずですが、ほとんど記憶に残っていません。
有名な「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい」の始まりぐらいは覚えていましたが…。

なぜ突然、『草枕』を読み返そうとしたかは、
これがミレイの『オアェリア』をもとにして書かれているからでした。
東京で「ミレイ展」を観てから、なんとなく気になっていた。

人里離れた温泉宿を舞台とした、画家の主人公と謎の美女との出会いという設定や、
不思議な会話や情景は、たしかにイギリスのゴシックロマンを思わせます。
漱石は、けっこうそうした世界から影響を受けていたようです。
その傾向の作品群が『漾虚集』に入っている「倫敦塔」や「幻影の盾」ですが、
それらの作品は『坊ちゃん』や『猫』とはまったく違う漱石の世界。

『草枕』にもそうした世界に近い雰囲気もありますが、でも同時にけっこう理屈をこねくりまわしていく、
こういう「物語」を書くことの作者の自己弁明みたいなところが延々と続いて、
それはたしかに漱石の「思想形成」にとっては重要なのでしようが、どうも今から見ると、
せっかくの作品世界をぶち壊してしまうような感じがします。

このへんが、ひたすら「物語」に惑溺する鏡花や谷崎との違いということなのでしよう。

                                

宮崎駿

夜は読書。コミック版『風の谷のナウシカ』(徳間書店)を、メモをとり、付箋をはさみながら熟読しています。
「日本神話」の本のためですが、いやいや、この作品、何度読み返しても、奥が深い。
あらたな発見があります。今回は〈青き衣の者〉の神話=古伝承が、
アニメ版からコミック版へとどのように変奏していくのか、「神話の変奏」というテーマから読んでいます。

それにしてもアニメ版のクライマックス、王蟲の触覚のうえを歩くナウシカの姿から、
盲人の大ババさまがかっと目を見開いて、「その者、青き衣をまといて金色の野に降り立つべし…」と語るシーンは、
何度見ても泣けてきてしまいます。まさに再生=再演される神話という場面ですが、
その予定調和的な展開にたいして、コミック版は、さらに〈青き衣の者〉の神話をひっくり返し、
もうひとつ奥の「秘密」にまで到達していくのでした。

今夜は、全七巻のうち、ようやく半分ぐらいまで。集中して読んだらぐったり疲れてしまいました。

今夜も『ナウシカ』の続き。深夜に読了しました。ナウシカ読みながら、
エリアーデの『神話と現実』(せりか書房)も読んでいます。
エリアーデはルーマニア出身の宗教学者で、シャーマニズムの研究が有名です。
彼の神話論は「永遠回帰の神話」とか「死と再生」といった、
今となっては一般化された言説となっていますが、しかしこういう一節があります。

神話が語る「話」は呪術・宗教的力に伴われる秘儀の「知識」。
なぜなら物体・動物・植物などの起源を知ること(=神話を知ること)は、
それらを意のままに支配・増加・再生産できる「魔力」を得ることを意味する…。
ここには、神話と魔術(呪術)との関係についての重要な示唆があります。
そして魔術とは、技術や職能の問題そのものです。

ナウシカの世界に多くの「技術」が語られること、
その技術はかならず「伝承」=神話をともなっていること、
そして「技術」の最奥の秘密こそが、土鬼の聖都シュワの「墓所」にあること、
それを知ることは、もっとも隠された世界の起源の知識を得ることになる。
物語の終末、ナウシカは、墓所で得た秘密の知識を人々には語らず、
自らのうちに封じていく…。〈青き衣の者〉の神話が到達した地平です。
エリアーデの「神話と魔術」との関係は、いろいろなことを考えさせてくれるのでした。

こうしたコミック版ナウシカの世界から見ると、
『もののけ姫』は、同じように「技術」の世界をあつかいながら、
なんと薄っぺらかがわかります。なによりも『もののけ姫』の主人公たちは「空を飛べない」。

それにしても、ナウシカの世界で「墓所」は世界の秘密に通ずる場所ですが、
さて、うちの近所にある天皇たちの墓所はどうなんでしようか。

一時間目は「神話・伝承学」。今日は、イザナミの死によって生まれたカクヅチを、
イザナギが殺していくと、火の神の血が岩を溶かして、刀剣の神を生み出していくという神話を読みました。

そこから、中世神話では金屋子神という鉄の神の信仰を生み、
鉄の神は女神だったという話題から、『もののけ姫』のタタラ場とエボシ御前のことが
それに通じているなんていうことを話しているうちに、
しかし宮崎アニメのなかで『もののけ姫』の主人公たちだけが空を飛べないこと、
だからこの作品は「神話」が終わった物語なのだ、ということに発展し、
『もののけ姫』にくらべて『ナウシカ』がいかに優れた作品であるか、
とくにコミック版が、「神話」の極致であると、熱く喋っているうちに、授業時間は終わっていたのでした。

でも話題が宮崎アニメのことになったら、一時間目で眠そうにしていた学生たちも、
ハッと目覚めたみたいで、乗って聞いてました。それにつられて僕も、
どんどんその話に深入りしていったのでした。まさに授業は一回一回のライブですね。

松井今朝子

校正作業の合い間の、夏休みのお楽しみ読書です。

第一弾は、ただいま話題の直木賞受賞作・松井今朝子さんの『吉原手引草』(幻冬舎)を読みました。

いやぁ〜、うまいなぁ。ともかくうまい小説です。

吉原の有名花魁が失踪した事件をめぐって、
読者=調査者が、吉原の手引茶屋、遣手、床回し、新造、幇間、女芸者、船頭、
女衒たちから情報を聞き出すという形で、ストーリーが展開。
語り手たちが、江戸時代の「吉原」についての基本知識を教えてくれ、
また彼らの歩んだ人生や経験を語ってきかせてくれます。

吉原のことについて何も知らない読者も、その世界の基礎知識を学びつつ、
彼ら語る人生の哀歌・情緒を味わっているうちに、しだいに「事件」の中心に向かっていくという構成になっています。

その語り手たちの職業、身分、男女の違いの言葉遣いの再現は見事。
読者は、いつの間にか「江戸時代の吉原」を生々しく味合うことができるのです。

作者は、きっとすごい勉強したんだろうなぁと思います。
そして勉強した知識にもとづいて自分の「小説世界」を作り出せることに、ちょっと嫉妬も感じますね。

小説の結末や、失踪したヒロインへの好き嫌いはあるかもしれませんね。
まぁあんまり書くと「ネタバレ」になってしまいますが。でもとても豊かな小説世界を堪能できることはたしかです。

作者の松井さんは京都出身とのこと。次は京都の島原・祇園の世界を描いてほしいですね。

 

山口公女

帰宅後、昨日くたくたさんが買ってきた、
山口公女『すっぴん芸妓』(ローカス)を炬燵に入って読みました。
この本、現役の祇園甲部の芸妓さんが書いた「祇園芸妓の裏話」といったもの。
ちょっと読み出したら、思わず面白くて、読んでしまいました。

祇園の四季の行事と芸妓さんの「知られざる日常」を、イマ風の女の子言葉と、
祇園言葉がミックスされた文章で軽妙に語っていきます。(笑)(汗)(涙)といった、
最近のメール記号もふんだんに使い、ともかく文章が生き生きとしていて、読ませます。

春の「都をどり」のときは、サロンパスと栄養ドリンクの匂いで充満とか、
九十近いおばあちゃん芸妓さんたちが、「ねえさんおおきに」「どこのこぉや」と言い合っているとか、
思わず笑ってしまう「裏ネタ」や、両親との葛藤やほろりとさせるエピソードも挿入されて、
「人情もの」として、これをテレビドラマや映画にしたら面白いかも。

そういえば、僕が中学生ぐらいのとき、「東芝日曜劇場」という番組のシリーズで、
『女と味噌汁』という、東京の芸者さんを主人公とした「人情もの」がありましたね。
池内淳子と長山藍子が芸者さんになっていました。中学生の僕は、けっこうこれが好きで、
「ほろり」としながら見ていたのでした。池内淳子がきれいだとか、
クラスの女の子に言ったら、わざわざその子が雑誌の切り抜きの写真とかを持ってきてくれた…。って、どうでもいい思い出話ですね。

それにしても、芸者さんの人情ばなしが好きな中学生って…。

ちなみに、以前、祇園方面でアルバイトをしていたというくたくたさんの「解説」をつけてもらうと、
この本、よりいっそう「リアル」で面白いのでした。

古典文学

 

午後からは、読書。突然、古典物語が読みたくなって、『木幡の時雨』(中世王朝物語全集6、笠間書院)を読み出してしまいました。

 

時雨が降る夜、京の木幡で出会った美少女と貴公子との、なんとも数奇な運命の物語。


 王朝ふうの、「あはれ」の世界が基調なのですが、後半から一転して、
姉と妹が入れ替わったり、双子が続けて生まれたりして、
ご都合主義的なハッピーエンドを迎えます。でも、とても面白い作品で、
あっという間に読んでしまうほど。久しぶりに「古典文学」を堪能しました。


 ちなみに、この作品の成立は、鎌倉時代後期とされていたのですが、
最近の研究では室町時代まで下がるようです。そう言われると、後半の展開は、「御伽草子」みたいなのでした。

 

夜は、江戸末期の人情本。為永春水『春色梅児譽美』(岩波古典大系)。
もうかなり昔に一度読んだものですが、最近、荷風の「為永春水」論(全集十八巻)を読んでから、
ふたたび読みたくなっていたのでした。


柳島あたりの裏借家に隠れすむ若旦那のもとに、通ってくる深川の芸者との交情の「あぶな絵」ふうシーンは、
思わず…、いいですね。明治の批評には「この作者の舌たるく春画体ゆゑ俗受よく、
上気しながら読む者多きより…」(大系頭注、参照)とあるのも納得します。

ところで、春水が「春画体」の小説を書いていたのは、平田篤胤と同時代。
天保年間です。幕末前夜です。篤胤や東湖、松蔭とかが「尊攘」について熱く語っていたときに、
芸者と落ちぶれた若旦那との情緒綿々たる世界を楽しんで書いていたというのが、僕は好きです。
春水みたいな存在を抜きして「幕末」を考えることは、片手落ちになるのでは。

なお『春色梅児譽美』の冒頭には、『簠簋抄』からの流れと思われる俗暦の世界が記述されています。
春水は、そうした暦のことに詳しい。「幕末の陰陽師」と為永春水との関係…。

 

黙阿弥は荷風が絶賛する「歌舞伎作者」ですが、「鋳掛け松」(『船打込橋間白浪』)の話とかは、
僕も『黙阿弥名作選』(創元社)の台本とかを読んで、けっこう気に入っています。
島屋文蔵とその妾の遊山船を見て「あれも一生、これも一生、
…こいつあ宗旨を、替へにやならねえ」といって、鋳掛け道具を捨てて、
堅気の生活から一転して、盗賊になるという話です。

本日は休息日。一日、炬燵にこもって「お楽しみ読書」。読んだのは、
為永春水の人情本『春告鳥』(日本古典文学全集・小学館)。

向島の別荘で若隠居ぐらしの鳥雅が、雨がそぼ降る秋の夜に、
抱えの侍女のお民の意外な美しさに気付き、いつかふたりは「いい仲」に。
情緒綿々とした濡れ場が続くのでした。
うす曇りの冬の日に、炬燵にこもって読むのにぴったり。

この作品、二十代の頃にはじめて読み、それから何度か読み返して楽しんでいるもの。
あらためて最近は、ここに描かれた江戸末期の世界、とくに挿絵の美しさに惚れ惚れ。

二日ほど前には、ネットの「日本古本屋」から注文した、集英社版『浮世絵大系』が届きました。
歌麿や清長の女性画、広重の風景画とかを見ていると、なんかじ〜んと感動してきてしまうのでした。
でも、歌麿や清長が活躍した頃は、「全身これ勤皇」という高山彦九郎が自死し、
宣長が『古事記伝』を書き上げた時代でもあるということが、僕にとってはまた大切なテーマでもあるのです。

そうそう、『読み替えられた日本神話』でも触れましたが、
平田篤胤が「国許退去」となって秋田で死んだ天保十四年は、
春水が「手鎖五十日」の刑を受けて、その心労から死んだ年でもあるのです。
そういう「同時代性」のなかで、人情本や浮世絵とかを見ると、またあらたな味わいが…。

先日、ATG版の『曽根崎心中』を観たので、
本棚から近松集(小学館・日本古典文学全集版)をだして、
原作本を読みました(何度目かの再読です)。

映画のほうで登場人物たちが、
かなり饒舌に喋るのは(ちょっと演説しているみたいに)、
浄瑠璃の地の文の語りの部分も人物たちの台詞として語っていたから、
なんていうことをあらたに発見。

また『曽根崎』の冒頭、観音めぐりの段には「照る日の神も男神…」
なんて一節があって、江戸期の民衆世界では伊勢のアマテラスは
「男神」として認識されていたことなんかもわかりました。

でも近松の浄瑠璃読んでいると、太棹の三味線が聞こえてきそう。
文楽が観たくなってきました。

午後、気分もよくなってきたので、居間の椅子に腰掛けて
、富士川英郎『江戸後期の詩人たち』(筑摩書房)を読みはじめました。

江戸の「詩」とは、儒学者たちが作る漢詩のこと。
頼山陽とかは有名ですが、ここで紹介される詩人たちは、ほとんど一般には知られていない人たち。
そうした江戸の詩人たちは、じつは荷風が愛した人たちでもあります。とくに江戸末期の大沼枕山とか、
寺門静軒などは、荷風が溺愛した詩人ですね。

著者の富士川氏はリルケの研究者でもあります。
氏がこよなく愛しているのは江戸中期の菅茶山。
たとえば「郊雲 四散して 夜 澄清/頭上の銀河 声有るに似たり…」なんていう詩…。

この本、荷風がらみで読み出したのですが、江戸の儒者たちの世界は、
宣長や篤胤たち国学者とも通じる面があります。
ということで、お楽しみ的に読んでいる、この本も、じつは「江戸の神話学」の勉強にもなるのでした。

夜は、西鶴「好色一代女」(岩波版『西鶴集』上巻)。

江戸時代のものでも、西鶴のものだと、
けっこう中世の説話的文体と構造が色濃いことをあらためて感じました。
たとえば江戸後期の人情本だと、綿々と描くような場面も、
あっさりとした叙述で流してしまう。でもいろいろ面白い場面続出。

男からもらった恋文を焼く場面、神々の名前を書き込んだ誓いの部分は、
燃えることなく書かれた神サマたちが「吉田の御社に散行きぬ」と帰っていくシーンは面白い。
吉田神社が、日本の神々の総本社みたいな認識が、江戸前期に出来上がっているのでした。

帰ってから、ごろんと横になりながら『黄表紙 洒落本集』の
山東京伝「心学早染艸」をパラパラと読んでいたら、
「しからば我が国の姉子なんども、清く浄とし給ん哉」なんて一節が。
「我が国の姉子」とは、なんとアマテラスのことを指すのでした。

夜は読書。

京都文化博物館の『源氏』展で紹介されていた、宣長の『手枕』(全集・15)を読みました。

『源氏物語』のなかで、光源氏が六条御息所と最初に出会う場面が描かれていないので、
宣長がそのシーンをあらたに「創作」したのが『手枕』です。
御息所が「前坊」と結婚し、娘を産んだあとに、夫が死に、
また「父おとど」にも先立たれ、失意のなかで暮らしているときに、
光源氏と出会う…という設定です。まさに宣長による『源氏物語』のサイドストーリー。

さすが、宣長が書くだけあって、その「擬古文」の文章は、本物そっくりです。
でも、やはり作中の「歌」は、宣長っぽく、理屈めいた歌のように思えるのは、ご愛嬌ですね。

それにしても、こんなサイドストーリーも作ってしまうなんて、
ほんと宣長の「源氏オタク」ぶりがわかります。

ちなみに『源氏物語』のサイドストーリーとしては、
ベルギー生まれの女性作家・ユルスナールの『東方綺譚』(白水社)のなかの
「源氏の君の最後の恋」も、けっこういいです。
描かれなかった光源氏の死の場面の「雲隠」巻。失明した光源氏が、
年老いた花散里と再会するという内容です。

若いときに読んだもので、無知だった僕はユルスナールが女性とは知らずに読んだのでした。

ちなみにそれを翻訳したのが、詩人の多田智満子さん。
ユルスナールの翻訳者として多田さんを知って、
そのあと彼女の詩集も読み始め、一方、ユルスナールのほうは、
ブリュージュを舞台とした中世の錬金術師を描いた『黒の過程』(白水社)を読んで、
この作家が好きになったのでした。

という、僕の読書遍歴の一端。

午後から四条の南座「顔見世」を見に行きました。
本日が初日です。くたくたさんは、一面に小さな花が描かれた薄い白地の絹の着物。とても華やかです。

四時半から「夜の部」開演ですが、初日とあって昼の部が少々延びたようで、
僕たちが到着したときは、玄関前は大混雑。舞妓さんの姿も発見。

夜の部の演目は、近松原作の『傾城反魂香』。いかにも歌舞伎らしい作品。
もともと文楽のものなので、太棹と義太夫の語りが入ります。
「どもり」の夫を励ますヒロインのおとくは坂田藤十郎。

舞台を見る前に近松の原作本を読みました(古典大系『近松浄瑠璃集』)。
近松といえば、リアルな世話物に慣れていたので、
時代物のとっぴな展開に最初は違和感がありますが、そのうち人形たちが動き回っているような感覚に。

ふたつ目は、明治の新歌舞伎・真山青果原作『元禄忠臣蔵 大石最後の一日』。
内蔵助は中村吉衛門。リアルな舞台でNHKのお正月時代劇みたい。

そして三番目、四番目はお待ちかねの坂東玉三郎が登場する『信濃路紅葉鬼揃』と
『源氏物語 夕顔』。玉三郎が鬼女紅葉と六条御息所を演じます。

今回、僕たちの座席は左端の花道のすぐ横。
『夕顔』のところでは、くたくたさんに教えられて、後ろをむくと花道を玉三郎の御息所の生霊が立っている!
 さすがにこれはぞくっとしました。

鬼女紅葉は、お能と義太夫節、そして長唄が混合したような演奏で、
後半はほとんど台詞のない、舞踊劇です。最後の二つは、
まさしく玉三郎のために作られた舞台なのでした。

典型的な歌舞伎劇、リアルな新歌舞伎、
そして実験的なふたつの舞踏劇と、今年の顔見世は、
「歌舞伎」のいろんな面を楽しむことができる仕組みになっていました。
やっぱり一年に一度でも歌舞伎を見るのはいいですね。

夕ご飯は、出かける前に近くの仕出し屋の「うを捨」でお弁当を注文し、
冷酒の小瓶とお猪口持参。幕合いに、座席で冷酒を飲みながら、美味しいお弁当を食べました。

芝居が終わったのは十時近く。

正月読書は、前から読みたかった柳亭種彦『偐紫田舎源氏』(岩波・新古典大系)。
読み出したら、止まらない面白さですね。これは。

『偐紫』は江戸末期の天保年間の戯作者・柳亭種彦の作。
いうまでもなく『源氏物語』の翻案です。光源氏は「足利光氏」。
桐壺女御は「花桐」。藤壺は「藤の方」。夕顔は「黄昏」とちょっと洒落たネーミング。
でも、たんなる源氏物語のパロディではなく、もうひとつの独立した物語です。

お家騒動の立ち回りや謎の人物の登場、ちょっと在り得ないようなどんでん返し、
台詞も七五調の名調子が続き、まるで歌舞伎の舞台が浮かんでくるほどです。
実際に『偐紫』にもとづく歌舞伎芝居が江戸末期には上演されています。
たしかに、今でも、華やかな若手歌舞伎役者で上演してほしいですね。

ただ歌舞伎研究者の渡辺保氏によると、『偐紫』自身が完璧な歌舞伎世界を作っているので、
それを実際に上演してもあまり面白くないそうです。
本のなかですでに芝居の世界が吸収されつくされているので、
もう一度芝居に仕立て直す余地がないから、
というのが渡辺氏の見解です(新古典大系の月報)。

なるほど、それは肯ける気がします。
でも、そうであっても、実際の歌舞伎の舞台で『偐紫』を見てみたい。

本日の読書は、光氏が「一生この身は好色者の、浮名をとりて…」と宣言し、
いよいよ「光源氏」としての生涯を歩み始めるところまで。
原作の「桐壺」の巻は、こちらでは大スペクタクル・ドラマなのでした。

深夜までの執筆仕事のあとは、ちょっとだけウイスキー飲みながら、
気分転換の趣味読書。しかし、その読書が思わず、興に乗ってしまうことも。

たとえば堀口大學訳の『悪の華』(新潮文庫)をぱらぱら拾い読みしているうちに、
「秋の歌」を荷風の『珊瑚集』の訳とつき合わせて、
この部分は荷風がいい、こっちの節は大學のほうがいいとか、読み比べ…。

また、たとえば雑誌の『月刊京都』の古本屋特集から購入した吉井勇の『京の歌ごよみ』。
そこに紹介されている江戸末期の漢詩人・中島棕隠(そういん)に興味がわいて、
祗園のことを詠んだ棕隠の詩が読みたくなって、富士川英郎『江戸後期の詩人たち』から、発見。

『鴨東四時雑詞』のなかの「楼燈 影なくして 水声しげし/一片の残蟾(ざんせん) 
寂寥を照す/少女十三 能く客に慣れ/風露を辞せず 送って 橋を過ぐ」なんて漢詩。

祗園の舞妓さんの姿が漢詩で詠まれるのは、とてもめずらしいそうです。
『祗園歌集』を出している吉井勇は、そうとう棕隠が好きらしい。

そこでさらに棕隠の詩が読みたくなって書棚の古典大系とかにはないかどうかを探しているうちに、
深夜四時近くなってしまい、あわてて寝る…なんてことも。

 

もどる