日記のなかの文学たち  

西洋系美術編

 

土曜日、学会の前に久しぶりに上野に行きました。

国立西洋美術館の横に「無料休憩所」があります。

木陰にウッドデッキが作られて、洒落たテーブルと椅子。そこに腰掛けて、

買ってきたサンドイッチやコーヒーで朝ごはん。しばらくくつろぎました。

西洋美術館の特別企画は「ドレスデン国立美術館展」。

 

ドレスデンは数世紀にわたって美術コレクションをしたドイツの「文化都市」。

そこに収集された美術品の展示です。そんなに期待していなかったのですが、これが凄いのなんのって。

 

まずはデューラーの「星図・北星天」「南星天」の木版画。

それから十七世紀の地球儀、天球儀、天体観測器、渾天儀など。

ドレスデンの美術収集室は、「知識の宝庫」でもあったのです。

そして十九世紀の「ドイツロマン派」の数々。

なかでもフリードリヒの絵を生で見たのは、感動でした。

「月を眺める2人の男」とか「雪中の石塚」など。

展示図録は、エッセー編の別冊付きで三千五百円。箱入りです。

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曇った空は、今にも雨が降りそうです。

午後から、くたくたさんと京都駅に出て、伊勢丹にある美術館で「シャガール展」を見ました。

シャガールって、もっと昔の画家かと思っていたんですが、ほとんど現代作家なんですね。

リトグラフの作品がメインでしたが、ギリシアの古典作品を題材とした「木精」がよかった。

深い「青」の湖と白い影…。シャガールは、ロシア正教とか、ロシアの民俗にも繋がっているとか。なるほどって感じです。

 

今夜も二時過ぎまで、原稿書いていました。

疲れて、すぐに眠れないので、黒枝豆ご飯をおにぎりにしてもらったのを肴に、軽くウイスキー…。
飲みながらモンス・デジデリオの画集眺めていたら、三時過ぎてました。

モンス・デジデリオとは、十七世紀あたりの画家ですが、素性もよくわからない謎の人物です。
絵の主題は、崩壊する建造物。柱が崩れていく様とか、燃える都市とかばかり描いています。
澁澤龍彦とかもよく話題にした画家です。

ホッケの『迷宮としての世界』のなかで「マニエリスト」として紹介され、
その本の口絵に載っていた絵が、昔から記憶に残っていたのですが、
1995年にリブロポートが一冊の画集を出したのを(今は絶版)
僕は持っているのでした(当然初版)。なんてこと自慢してないで、もう寝ましょう。

「仕事」は深夜二時ぐらいに切り上げて、例によって軽く一杯。
今は国産のモルトウイスキー「北杜」を飲んでいます。
冷蔵庫をごそごそと探して、チーズやらピクルスやら生ハムやらを見つけだして、おつまみに。
つまみがあると、一杯がつい二杯になってしまいます。
ウイスキーはストレート、一緒に冷たい麦茶を飲みます。う〜〜、旨い。

ちょっといい気持ちになって、手元の本棚からトレヴィルが出した『水の女』という画集を眺めはじめます。
この画集は、ラファエル前派のあたりの画家を中心に、「水」と女性をテーマにした作品のアンソロジー。

そのなかでウォーターハウスの「シャロットの女」を見つつ、
それが題材とした英国ヴィクトリア朝のロマン派詩人・テニスンの詩「シャロット姫」(『テニスン詩集』岩波文庫)をパラパラと読み始め、

「ほの暗く広がる川面を下り さながら夢うつつにある豪胆な予言者のごとく、己が身の上の不運を一切見据えて―」

なんて一節を読んでいるうちに、自分も「夢うつつ」みたいな感じになって、
ハッと気がついたら三時を過ぎていたのでした。

澁澤龍彦のエッセーに「夜毎に繰り返されるたったひとりの深夜の祝祭」(『夢のある部屋』河出文庫)というのがあります。

澁澤は仕事が終わると、必ず一杯やるのですが、飲みながらさまざまな「妄想」が頭をかけめぐり、
それが彼の作品を生み出していくきっかけにもなっているみたいです。
でも僕の「深夜の祝祭」は、ほんとにただの「妄想」なのでした。

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夜も仕事の続き。レジュメの打ち込みです。深夜一時半ぐらいで、
ひと段落ついたので、久しぶりに深夜の「祝祭」。
和製モルトの「余市」をストレートで一杯、二杯。
前飲んだ「北杜」よりも、数段こちらのほうがおいしいです。

飲みながら、例によって本棚から画集を取り出して眺め始めました。
リブロポート発行『ラファエル前派画集「女」』、同じく『ラファエル前派の画家たち』。

ロセッテイは、やはり初期の頃のほうがいいなぁとか、
ミレーの『オフィーリア』は何度見ても新しい発見があるなぁ…などと、いい気持ちになってきました。

 

京都駅でお昼ご飯を食べ、伊勢丹にある美術館で『ポーラ美術館の印象派コレクション展』を観ました。
箱根にあるポーラ美術館の所蔵品の特別展示。
モネ、ルノアール、スラー、ゴーガン、セザンヌ、ボナールといった、
おなじみの「印象派」の作品ですが、え〜、こんなのも所蔵しているのかといった名作も観ることができました。

 

講座が終わってから、タクシーで「国立国際美術館」へ。『ベルギー王立美術館展』を観ました。今回の目玉はなんといっても、ブリューゲル(父)の作とされる『イカロスの墜落』。日本初公開なのでした。


しかし、僕のお目当てはポール・デルヴォーとフェルナン・クノップフ。

デルヴォーは、いわゆる「シュルレアリスム」の画家とされますが、静止したような裸の女性たちが夜の街や、
古代ギリシアの景色、夜の駅のなかに立っているという絵が好きなのでした。

今回は「夜汽車」や「ノクターン」が出品。その他、墨で描いたデッサンも二点。
「夜汽車」は、ほんと感動してしまい、ずっとその絵の前で見惚れていました。

クノップフは、ローデンバックの小説『死都ブリュージュ』(岩波文庫)で知られるベルギーの都市ブリージュの風景を描いた「憂愁の画家」。

 

「みすてられた町」が有名です。今回は「シューマンを聴きながら」や「白、黒、金」などの四点。
幻想的でありつつ、とても「リアル」な風景画も描いていて、
なんか不思議な画家。ラアフェル前派やモローの影響とかもあるようです。

自分の好きな画家の絵をじっくり観ることが出来て、それだけでとても幸せな気分に。

昨日行ってきた『ベルギー国立美術館展』の展示目録を眺め、
そのあとは、デルヴォーについての澁澤龍彦のエッセイ『幻想の画廊から』(河出文庫)。
モンスデシデリオやベックリン、ギュスターヴ・モロー、ルドヴッヒ二世についてのエッセイも読み返しました。

いゃ〜、なんか久しぶりにシブサワ的世界を味わった気分。最近、忘れていた世界の感覚がよみがえってきました。

そのあと、昔観にいった『ベルギー象徴派展』(96年)や『世紀末ヨーロッパ 象徴派展』(96年)の図録を眺めて、「絵画」に浸りました。

それにしても、デルヴォーもクノップフも、モネとかルノアールみたいな広く知られている画家ではないでしよう。
なんといっても、ふたりとも、いま日本で発行されている画集は、一冊ずつしかないぐらいですから。
当然、ぼくはその画集持っています(自慢げに)。

クノップフのほうは、『フェルナン・クノップフ』(岩崎美術社)。
デルヴォーのほうは、74年に河出書房から出た『シュルレアリスムと画家叢書』(なんと監修は瀧口修造)のなかの一冊。
これは古いので印刷の色も悪いし、カラーページも少ない。(最近、この本が再版されました)

デルヴォーの画集観ながら、いったい、最初にこの人の絵を観たのは、
いつだったのかとあれこれ思い出そうとしたのですが、思い出せません。

夜の暗闇のなかなのに、なぜか細部まで描きこまれた駅の一角に、静止したような裸の女性が立っている絵。

その絵のことは、しばらく忘れていたのですが、
以前、山尾悠子さんの小説『ラピスラズリ』(国書刊行会)を読んだとき、そこに出てくる駅舎の様子から、
なぜか脈絡もなくデルヴォーの絵のことがよみがえってきて、
それでデルヴォーの絵が観たくなって、古本屋で、河出の画集を購入したのでした。

山尾さんの小説も、なんか夢のなかの場面みたいなシーンが続くのですが、
結局デルヴォーの、なんの音もしない、静まりかえったような夜の風景の絵も、ほんと夢のなかの景色みたいです。

あらためて、デルヴォーの画集を眺めていたら、どっか見たようなへんな既視感が。
電燈が続く夜の道路。夜の線路の下の道……。

と、一日、趣味的世界に耽ったのでした。

 

十七日の日記に、ポール・デルヴォーについて、現在日本では一冊しか画集がないとか書きましたが、
あれは間違いでした。(偉そうに書いていますが、恥ずかしい)

調べたら、僕が持っているもの以外にも、二冊でています。
86年刊行『アート・ギャラリー現代世界の美術 19』(集英社)、
87年刊行『デルボー画集』(リブロポート)。87年のものは、「日本の古本屋」で検索したら、けっこう高値がついています。
でも、ちょっと欲しくなってしまいますね。

その他、89年に行われたポール・デルヴォー展の展示図録も。
こちらはオールカラー印刷で、けっこう手ごろな値段だったので、即座に購入しました。
初期のころの絵も入っていて、まるで印象派ふうの風景画なども描いていたのですね。

その参考文献によれば、一九七五年に東京の近代美術館でデルヴォー展が開催されていました。

 

僕が最初にデルヴォーを観たのは、この展覧会のときだったようです。女の子とのデートで、見に行ったことを思い出しました。

 

正月の読書は、ふだん読めない小説や美術書などを読むのが、近年の「恒例」です。
今年は、元旦からユルギス・バルトルシャイティス『イシス探求』(国書刊行会)を読んでいます。

エジプト神話の女神イシスが、様々に姿態を変容させて、いろんな時代や場所に再生してくるところを、
膨大な資料を駆使して、まさしく「博覧強記」「博引傍証」で描いていく本です。
イシスがフランス革命のシンボルであったり、パリのノートルダムはイシスの神殿であったとか、
イシス=イエスズ(イエス)であるとか、まさにトンデモ本みたいな話が続きます。

ようするに、これは「読み替えられたエジプト神話」ですね。
バルトルシャイティスは、このテーマを「正典である物語の周囲に想像の物語を生み出す」もので、
レンズの「アベラシオン」(収差)「アナモルフォーズ」(歪像)という「逸脱の遠近法」と方法化していきます。
近代=遠近法にたいする「異議申し立て」の発想です。

バルトルシャイティスは、『幻想の中世』(平凡社)などで、
異端の美術史家というイメージですが、『イシス探求』などの一連の研究は、
まさしく現在の神話研究と繋がる神話学といえそうです。いろいろ学ぶことがあります。

 『イシス探求』を読んでいると、そこに描かれる十八世紀の学者たちが、
平田篤胤などと重なってきます。そこで思わず、篤胤の『印度蔵志』のページをめくってみたりもしました。
『印度蔵志』は、今書いている「江戸の神話学」にとって、最重要テキストです。

ちなみにバルトルシャイティスのことは、澁澤龍彦の『悪魔の中世』(河出文庫)で知りました。
こっち方面のファンの間では有名な研究者です。
そういえば、以前に友人のT氏に、バルトルシャイティスのことを話したら、
当然そんなことは知っているという感じで、『幻想の中世』は、平凡社のライブラリーに入っていることを教えてくれたのでした。

お正月の読書は、ふだんは読めない本をと、このところ美術関係のものを読む習慣になっています。
昼間は岩波・世界の美術の一冊『ロマン主義』(デーヴィッド・B・ブラウン。高橋明也訳)。
これはちょっと教科書的すぎたので、夜は大原三八雄『ラファエル前派の美学』(思潮社)。こちらはとても趣味系でした。

年が明けてから、外出したりテレビ漬けになったりして、ほとんど本読めなかったのですが、
今日は久しぶりに終日、家にこもって趣味系読書を楽しみました。
元旦から読み始めた大橋三八雄『ラファエル前派の美学』の続き。

ラファエル前派といえばミレーの『オフィーリア』が有名ですが、
イギリスの十九世紀中、後期に起こった美術ムーヴメントです。
その中心となったロセッティは、画家であると同時に詩人です。
またラファエル前派の絵は、中世の騎士物語やアーサー王伝説、
シェークスピアやテニスンの詩を題材にしたものが多く、文学と絵画が融合した世界、って感じです。

大橋氏の本は、ロセッティの詩人としての側面に注目し、
彼の詩作がキーツやブレイクやワイルド、エドガァ・アラン・ポウとどう関わったか、
またラファエル前派が、明治時代の日本の島崎藤村・上田敏・蒲原有明・正岡子規・夏目漱石といった
有名どころの作家たちにいかに深い影響を与えたかを論じています。
わが愛するラフカディオ・ハーン(小泉八雲)も、ロセッティを高く評価していることも知り、うれしくなりました。

日本でラファエル前派の絵が流行ったのは、
僕の記憶では八十年代ぐらいからだったのですが、
明治期にすでに日本に入っていたのは、あらためて「へぇ〜〜」って感じです。

ラファエル前派の詩や絵画は「中世趣味」(たとえばアーサー王伝説もその一つ)を掲げているわけですが、
そうした世界を明治期の作家たちはどう理解していたのでしようか。
日本の場合は「中世」というよりも「古代神話」の側に向いてしまうのでは…。

たとえば青木繁の絵とかはラファエル前派風ですが、
そこに描かれるのは「古代神話」の世界です。
こういうことは、明治期の日本における「神話」の再創造の問題とリンクさせて考えてみると面白そうですね。

まぁ、今はとりあえずラファエル前派の世界は「趣味系」なので、
大橋氏の本読みながら、画集を眺めたり、テニスンや上田敏の訳詩をつらつら読んだりして、楽しんだのでした。

夜は漱石の「薤露行」。ラファエル前派風のアーサー王伝説の世界です。
それにしても、この美文調の物語を『吾輩は猫である』と同時期に書いたというのは、
なんとも信じられない…。ここには僕たちが普通に知っている漱石とは別の作家がいるみたい。

夕方からまた雪が降り出しました。夜中、外を見るともうあたり一面真っ白でした。

本屋出たら、雨が本降りに。JRで京都駅に出て、
伊勢丹にある駅の美術館で『ヘミングウェイが愛した街 1920年代巴里の画家たち展』を鑑賞。

パリの街を描いた絵が何枚もありますが、さすがユトリロの絵は他とは違う。白い壁にたいするこだわりが違うんですね。

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以前、世紀末美術が好きとか、なんとか日記に書いているのを読んだ、
大学院の卒業生で、今は某新聞社に勤めているKさんが、「アート・マジック」というサイトを教えてくれました。

あらためて、いろいろ覗いてみると、これはすごいです。

ベックリン、クノップフ、モロー、ロセッティなど、
僕が好きな「世紀末美術」の画家たちの絵をふんだんに見ることができます。
そしてもちろん、無料でダウンロードもできます。

初めて聞くような画家たちで、気に入った絵も少なくありません。
しかし、なんといってもうれしかったのは、
イギリスの画家で「ラファエロ前派」の系譜を受け継ぐ、ウォーターハウスの絵が多数入っていること。

夕映えの川に浮かぶ小船に放心した女性が座っている「シャロットの女」、
池のなかに浮かんでいる多くのニンフに取り囲まれるヒュラスを描く「ヒュラスとニンフたち」、
遠くに港が見える丘で、天使たちの音楽を聴きながら、
眠っている「聖カェキリア」、池の古木に座って髪を梳く「オフィーリア」などなど。

ウォーターハウス好きの僕は、一九九四年、リブロポート発行の画集や輸入版の画集をもっていますが、
なんとこの「アート・マジック」には、画集で見たことのない絵もふんだんに入っていました。

最近は、「印象派」ばかりが人気ですが、
この「ラファエロ前派」系の画家たちの展覧会などもやってほしい…。

今日、大学は会議日。会議のあとの疲れたときに、
研究室のパソコンから、好きな画家たちの絵を眺めることができるのは、なんともうれしいかぎりです。

ただ今、デスクトップ画面は、ウォーターハウスの、イギリスの古城の絵です。

午後、気分転換に杉本秀太郎さんが翻訳したフィリップ・ジュリアン『世紀末の夢』を読み始めました。

ヨーロッパ世紀末の美術といえば、このところ印象派が大人気ですが、
この本では印象派がいかにつまらない絵画であるかを論じつつ、
その反対の立場、というかそれらとは無縁みたいなギュスターヴ・モローを絶賛していくものです。

ホテルの三階にあるプール。外を見ると、雨にぬれた渋谷のビルが見えます。

雨の景色を眺めながら、悠々と泳ぐのは、ほんと気持ちいい。
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メートルプールを何往復もしました。疲れたらジャグジーへ。なんとも贅沢な気分です。

プールのあとは、ホテルの巡回バスで渋谷の街へ。
BunkaMura」のザ・ミュージアムで「ジョン・エヴァレット・ミレイ展」。これもお目当てでした。

このところ美術展といえば印象派ばかりですが、ラファエル前派の代表のひとりミレイの日本で始めての本格的な展示です。
なんといっても、あの「オフィーリア」の実物が見られる!その他、英国詩にもとづいた作品や人物像、それに晩年の風景画など。

ラファエル前派のもうひとりの代表・ロセッティは、晩年はけっこう悲惨で「狂気」に近かったらしいですが、
ミレイは平穏で、そして経済的にも恵まれた人生であったようです。たしかにそういわれると、
ロセッティの後年の狂気じみた女性像の絵の迫力にくらべると、たしかにミレイは物足りない。
「オフィーリア」がすべて、という感じもします。

植物に囲まれた水辺に浮かぶ女。オフィーリア…。

ミレイを観たあとは、店内の喫茶店でサンドイッチとビールで遅い昼食。
くたくたさんは近くの万華鏡の展示を覗いています。

それにしても、東京にいた頃は、渋谷は自分の日常生活圏でしたが、
京都に移住してから「旅行」で渋谷に来ると、まったく違う場所みたいに思えるのが不思議。
通いなれた渋谷が、どこか異国の街みたいな見えてくるのでした。

まず岡崎公園の国立近代美術館で「生活と芸術・アーツ&クラフツ展」を鑑賞。

ウイリアム・モリスが中心ですが、ドイツや日本への影響など、盛りだくさんの内容でした。
モリスと一緒に暮らしたこともあるロセッティのステンドグラス・パネルの作品が展示されていたので驚き。
最初、ロセッティとはわからなかったのですが、
よく見ると、描かれている女性たちの顔はまぎれもなくロセッティでした。

鑑賞後は、モリスの模様の布やらコーヒーカップやらを購入。
くたくたさんはもともとモリスが好きだったのですが、
ロセッティ好きの僕のほうと意外にもクロスしていたのでした。

夕方になってきて、白川ぞいの喫茶店で休憩。川が見える外のテラスで紅茶とマドレーヌ。
道路から少しだけ入った川べりの小さなお店は、けっこう静かな雰囲気。
夕暮れのなかお茶を飲むのは、けっこうでした。

さて、休憩したあとは、今度はお向かいの京都市美術館に入って「芸術都市パリの100年展」鑑賞。

ルノアール、セザンヌ、ユトリロと有名どころの名前が出ていますが、
彼らの作品数はわずか。中心は「無名」の画家たちのパリの街を描いたものが多数です。

エッフェル塔が出来上がるまでの記録写真とか、十九世紀末のパリの風俗という感じでは面白いですが、
先ほどまで観ていた「モリス」たちの世界にくらべて、なんとも下品というか、
洗練されていないというか…。こちらは期待はずれ。

でも、唯一、ギュスターヴ・モロ−の「声」と「レダ」を観ることができたのがよかったです。

このパスタ屋さん、文庫本や絵本などの「古本」が店内で置かれ、
一冊みんな250円と書いてあります。その横に、
集英社の現代世界美術全集の『ボナール・マティス』が置いてあったので、
思わずお店の女性に、これも250円ですかと聞いて、買ってしまいました。

お目当てはボナール。いま手元には朝日新聞社のソフトカバーのボナール画集があるのですが、
集英社版は、解説は大岡信氏が執筆。

それにマティスの絵も、あらためてゆっくり見ると、
モロッコ滞在のときのイスラム風の壁飾りの部屋とか、けっこうお気に入りのものがありました。

続いて伊勢丹にある「美術館えき」でドアノーの写真展。『パリ・ドアノー』展を観ました。

どことなくユーモアがあって、でもなんとも美しいパリの街の写真です。
箒をもった老人と犬が戯れる「煙草屋の犬」、橋の上で絵を描いている男性を覗き込む別の男性と犬「芸術橋の上のフォックス・テリア」、
長いパンを手にしてお駄賃を数えている少年「お使いのお駄賃」、
トリニテの裏道の娼婦「トリニテの小路、二区」などなど。

じつは僕は以前からドアノーのファンで、
今は絶版になっている『ドアノー写真集 パリ遊歩』(岩波書店)という分厚い写真集も持っています。

またドアノーの写真のことを描いている、堀江敏幸のデビュー本『効外へ』(白水社)の「給水塔へ」という小品もお気に入り。
ドアノーが撮ったパリ効外の光景についてのもの。
でもその写真は、僕の持っている写真集にはどうも出ていないみたい…。

ドアノーの写真展を観て、気分がよくなったところで夕食。
センチュリーホテルの「春の京ディナー」。格安の値段で食べられる特別メニューです。
三種類の前菜が美味しかった。このホテルのレストランは、静かに、ゆったりとした気分で食事ができます。

夜は山尾ワールドから、モンス・デジデリオの画集を鑑賞。うっとり、戦慄気分です。

お昼過ぎに京都駅に。駅の美術館で「ミヒャエル・ゾーヴァ展」を見ました。

ゾーヴァは、ドイツの挿絵画家で、『キリンと暮らす、クジラと眠る』
『クマの名前は日曜日』などの挿絵が有名です。くたくたさんは以前から、
その絵が好きだったとか。さらにびっくりしたのは、以前に見た『アメリ』の絵と小道具などの作り手だったのでした。
アメリがベッドに寝ている部屋に飾られているへんな絵やランプは、ゾーヴァ作。

『キリンと暮らす…』の、森の湖にキリンと一緒にボートに乗っている絵は、なんともいいですね。
しかし、あらためてゾーヴァの絵を眺めると、くたくたさんの頭のなかの世界と共通しているものがあるのかも。

ゾーヴァ展を観て楽しんだあとは、京都駅のホテルグランビアで、美味しいランチ。「夏の京都」の特別メニューでした。

日本美術編

 

『新日曜美術館』を見ました。長谷川潔の特集です。
長谷川潔は、〈マニエール・ノワール〉という特殊な銅版画の技法を用いて、
黒い画面のなかに細密に描かれた植物や貝殻、人形、コンパス、ジロスコープなどの静物を配した、なんとも神秘的な版画が代表作です。

くたくたさんは、長谷川の絵が好きだったので、
何年か前に行われた京都国立近代美術館に所蔵された作品の展示会を観にいったことがあるのでした。
うちには、そのときの図録も。以前その図録を見せてもらって、
不思議な絵だなぁと覚えていたのでした。

番組では、長谷川潔が堀口大學の詩集の装丁をしていることを紹介していましたが、
図録を見たら、なんと日夏耿之介の第一詩集『転身の頌』の装丁や挿絵なども描いているのがわかりました。
さらに日夏が作品を発表した同人誌『仮面』の表紙も。ふたりにはかなり密接な交流があったようです。

 

昨日は、夕方からふたりで京都文化博物館へ。『北斎と広重展』を観てきました。

僕は広重の『名所江戸百景』が好きなんですが、今回、それは入っていませんでした。
でも、おなじみの『東海道五十三次』、それに『京都名所之内』は、よかった。
「祇園社雪中」には、「感神院」と書かれた鳥居の前に芸妓ふうの女性が描かれています。
それを見つけて、くたくたさんも喜んでいました。

北斎、広重は、天保とか安政とかの時代の人です。まさに「幕末」。
そんな「激動」の時代の裏で、生活を楽しんでいる人たちの姿を飄々と描いているのが、
なんかとてもうれしくなってくるのでした。

 

夕方、四条烏丸に出て、くたくたさんと合流。大丸で「幕末浮世絵」展を観ました。

北斎、広重、国芳など、代表的な浮世絵ですが、あらためてそうやって観てみると、
一般に有名な浮世絵師たちは、みんな江戸末期、つまり「幕末」なのでした。
この展覧会、「幕末」をコンセプトにして、
浮世絵を見直すという、けっこう「仕掛け」がしつかり出来たものなのです。

それにして、幕末の浮世絵師たちは、なんとパロディ精神にあふれ、
ブラックな「楽しみ」を作り出していたのでしよう。展示を見ながら、くたくたさんは大笑い。

 

朝は「新日曜美術館」で、清長の浮世絵。美人画といえば、歌麿が有名ですが、
僕は清長の、そんなに派手な色使いのない絵柄が好きです。
天明期の女性たちのふっくらとした顔立ちも、まるで春の景色みたいで、ボーとした気分にさせてくれます。

隅田川の川船で風に着物の裾をなびかせている芸妓、品川の遊郭で、
欄干にもたれて海を眺めている遊女、武家や町人、遊女などいろんな階層の女性たちの群れる飛鳥山の花見の景色…。
まさしく「逝きし世の面影」(渡辺京二)ですね。

平安神宮近くの「京都市美術館」に行き『春を待つ』という展示を見ました。
久しぶりにいろんな絵を見て、なんか絵が描きたくなってきました。一応、僕も美大出身なので…。

持参したお弁当を、美術館横のお堀を眺めながら食べました。
春には一面が桜となるところです。昨日、くたくた母上からいただいたちらし寿司。
ほうれん草と春菊の胡麻和えがとても美味しい。近くのベンチでは、老人夫婦が日向ぼっこしています。

食後は、お隣の「京都国立近代美術館」で『揺らぐ近代 日本画と洋画のはざまに』の展示鑑賞。
明治初期における「近代」とは何かというテーマを「美術」を通して、問うというけっこう難しい展示ですが、
あらためて日本画/洋画のジャンルわけが「時代」のなかで、変転していく様子がわかって面白かった。

「揺らぐ近代」というテーマは、最近の僕の関心ともちょうど重なるものでした。

夕方、白川ぞいの道を歩きながら、三条どおりに。三条の通りも、ビルが多いですが、
でも時々古い建物も残っています。「木地師」と書いた看板のお店も見つけました。
細い通りを覗くと、まるで別世界への入り口みたい。

午後からふたりで外出。京都国立博物館の「河鍋暁斎」展を観てきました。

暁斎は、江戸幕末から明治にかけて活躍した画家。浮世絵を学び、
また狩野派の絵をマスターしています。したがって、その画風は、
これがひとりの画家の絵とは思えないほど、多種多様です。

展示はけっこう混雑。小さな画帳などは見損ねたものもあるのですが、
帰宅後、購入した図録を見ると、画帳のなかには年中行事のスケッチみたいな形で
「夏越の祓え」や「懸想文」、八王子の「わいわい天王」などの貴重な絵もありました。
また日本神話を題材とした絵などはなかなか興味深い。

ちなみに暁斎は、幕末のころは狂斎と名乗っていた、明治に「暁斎」と変えます。

幕末の怪しげな絵師としての「狂斎」は、幕末の動乱に背を向けてひたすら好きな絵を描いていた絵師として、
荷風などが絶賛しているのでした。

たしかにこの人の絵を見ていると、ただひたすら絵を描くのが楽しく、好きで、好きでたまらないという感じが伝わってきます。
そういうのは、いいですね。

京都文化博物館の「読む、見る、遊ぶ 源氏物語の世界」展を観ました。
源氏千年紀のイベントの続きですが、今回は、おもに江戸時代の「源氏受容」がメインテーマ。
僕としては、こういうほうが面白い。

とくに面白かったのは、なんといっても『偐紫田舎源氏』を題材とした錦絵の数々。

『偐紫』そのものは、室町時代に時代を移した源氏物語の「パロディ」とされていますが、
浮世絵に描かれた世界は、平安とか室町とか、江戸とかの時代がすべてごちゃまぜになって、
いつの時代なのかわからないみたいな、そんな不思議な空間を作り出しています。
三代歌川豊国が描いたものが多いのですが、ほんといいですね。

ふたりで大笑いしたのは、「都名所源氏合金閣寺桜の遊覧」。
明治初年に描かれたものですが、足利光氏(光源氏のパロディ)が深紅の毛氈をひき、
御殿女中を侍らせて、金閣寺の前で桜見物をしている情景です。
くたくたさんは、「京都に行こう」のポスターに使えると、喜んでいました。

柳亭種彦『偐紫田舎源氏』は、源氏物語のたんなるパロディ以上の作品であるという評価もあります。
最近読んだ、野口武彦氏『『源氏物語』を江戸から読む』(講談社)は、このへんのところ勉強になります。

種彦は天保十三年に水野忠邦の「改革」に合い、『偐紫』は絶版、
本人も同年には「病死」してしまうのでした。
ちなみに、翌年には平田篤胤も「江戸追放」、また為永春水も同じ年に「手鎖五十日」の刑に処せられ、
辛労のために死去したという時代でもあります。

なお荷風『散柳窓夕栄(ちるやなぎまどのゆうばえ)』(全集10)は、種彦を主人公とした小説です。

これも何度読んでも面白い。またそのうち読みかえしましよう。

夕方から着物のくたくたさんと京都国立博物館へ。
「京都御所 ゆかりの至宝展」を観ました。

「甦る宮廷文化の美」というサブタイトルですが、「宮廷と仏教」のコーナーが面白い。
「宮中御懺法講絵巻」には、僧侶たちと一緒に行道をする天皇の姿がそっと装束の裾の片端だけで描かれています。
また「旧御所黒戸所仏具」などの展示も。

さらにお目当ては天皇即位ときの「礼服」。朱色の地に日月や龍、
背中には北斗七星も描かれています。ふたりとも、この礼服をじ〜っと眺めていました。

その他、紫宸殿バックの「荘厳」の「賢聖障子絵」のなかに董仲舒の姿を発見。
あらためて、天皇の儀礼的世界は「中国」を抜きにしては成り立たなかったことが、よくわかります。
なかなかマニアックな展示でした。(というか、僕たちが喜んで見たところがマニアックなものだった?)

夕食は京都駅のホテルグランビアのレストランで「春の京ディナー」。
京都駅周辺のホテルのレストランが「競作」する特別メニューで、安い値段で美味しいフレンチが食べられるのでした。
グラスのワインも、とても美味。

朝からしとしと雨が降っています。そのうち、霙になり、そして雪に変わっていきました。
でも、気がつくとまた雨に…。なんとも「春」らしい。

雨がしとしと降るなか、着物に着替えたくたくたさんとふたりで近所の天神さんの梅苑にお出かけ。
雨のなかの梅も綺麗だろうし、人も少なくていいだろうなんて感じで出かけたのでした。

春の雨に濡れた梅の木は、たしかに美しい。梅はいまが盛りみたいです。
なので、雨のなか、意外と人出も。梅苑内の茶店で、梅を眺めながら、暖かい梅茶を飲み、お菓子をいただきました。
少し寒くなったので、用意されていた火鉢がなんとも温い。

帰ってから、広重の『名所江戸百景』(集英社・浮世絵大系)をぱらぱらめくり、
「蒲田の梅園」「亀戸梅屋敷」「真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図」など、江戸後期の梅の様子を眺めました。

さすがに春雨のなかの梅の図というのは、ないみたいですね。

この集英社版の浮世絵の画集、宮尾しげをさんの「図版解説」がなんとも面白い。

午後二時すぎからふたりで外出。京都国立近代美術館で「京都学 前衛都市モダニズムの京都展」を観ました。

明治26年の平安神宮・大極殿の地鎮祭の写真とか、平安神宮の建設風景、
大極殿のクラフト模型とか。「スター食堂」とか北白川の「島津邸」とかは、くたくたさんも知っているところ。
京都の「地元民」と一緒に見ると、この展示の面白さは倍増しますね。

ただもっと「モダニズム」の絵画とかが出ているのかと期待していたのですが、それは期待外れでした。

大極殿のクラフト模型、自分で組み立て式のもの。くたくたさん、真剣に欲しがっていました。

平常展の絵画もたっぷり見て、美術館出たのは、五時近く。
いつもの白川ぞいのオープンカフェーで、紅茶とマドレーヌのおやつ。
今日は、初夏の日差しがまぶしいほど。近くの高校生らしき男子たちがなんとパンツ一丁になって白川で水遊びしている…。

五時すぎ、くたくたんさと待ちあせて、京都国際マンガミミュージアムで「妖怪天国ニッポン」の特別展を観ました。
そんな期待していなかったのですが、江戸時代の「妖怪画」からはじまり、かなりマニアックなマンガ作品も出ていて、たっぷり楽しめました。

「妖怪占い」というのがあって、やってみると、ぼくは「ひょうすべ」、くたくたさんは「雪おんな」でした。一応、相性はいいらしい。

ここは古い小学校の校舎だったとかで、歩くとミシミシと音がします。その感じがいい。今度は学校全体を使って「お化け屋敷」やってほしい…。

外の庭では屋台も出ています。焼きそばは「焼きそ婆」、生ビールは「奈魔ビール」って、看板に出ているのが、笑えました。

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